旧ソ連が国際法の裏づけを欠いてまで北方領土を軍事占領した主な理由は、軍事的なものだと考えられる。オホーツク海の出入り口に当たる北方四島周辺海域は、数世紀にわたって「暖かい海(不凍港)」を目指して南下を続けてきたロシア海軍が太平洋に出るために、極めて重要だからだ。
国後水道の重要性と2島返還論
スターリン死後の「雪解け」を背景として、1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞・色丹両島の返還が明記されたが、平和条約も在日米軍の撤退を条件とするなどソ連の軍事的な意図は明らかであった。その後も、冷戦の激化をうけて領土問題の存在を否定するなどソ連は強硬姿勢を続けた。
特に、ソ連は冷戦後期になってオホーツク海の「聖域化」を図るようになり、戦略ミサイル原子力潜水艦の通り道として北方領土周辺海域の重要性が高まった。70年代までに米ソの核戦力はパリティ(均衡)に達していたが、ソ連は地上配備の大陸間弾道ミサイル(ICBM)がアメリカの先制攻撃に対して脆弱なため、戦略原潜をオホーツク海(および欧州戦域ではバレンツ海)に常時配備し、長距離ミサイルでアメリカ本土を核攻撃できる態勢を整えた。そして、オホーツク海の戦略原潜を守るため、北方四島の要塞化とウラジオストックを母港とする太平洋艦隊の増強が進められた。
その中で、択捉島と国後島の間にある国後水道は十分な深さがあり流氷の影響も受けにくいため、大型の戦略原潜がオホーツク海と太平洋の間を移動するために重要な航路となった。ロシアが歯舞・色丹の2島返還を基本的な立場としているのは、これら2島を返還しても、国後水道の通航には影響がないからであろう。
チャンスは90年代にあった
一方、冷戦が終わると、ロシアの態度に変化が見られ、1993年の東京宣言を経てロシア側から北方領土問題の解決に前向きな姿勢が見られるようになった。
その背景には、冷戦終結で北方四島の軍事的価値が低下し、一方で国力の低下を抑えるために、日本の経済支援を必要としたことが考えられる。おそらく、日本が最も有利な立場で領土交渉を進める余地があったのは90年代だろう。しかし、2000年代に入ってロシアの経済力が回復すると、領土問題で安易な妥協を拒む声が国内で強まり、北方領土の「ロシア化」を進めて、日本との交渉力を強化しようという動きが見られるようになった。