中学生のころ、視力は0.1程度残っていた。それが3、4年かけて、徐々に失われていく。歩いているだけで何かにぶつかる。階段をなぜか踏み外す。自転車がうまく漕げない。多感な思春期を過酷な現実が襲う。
そして遂に視力を失った。「死んだ方がまし」「なんで俺を産んだんだ」そんな言葉を母親にぶつけた。思い詰めたヒロさんは天草の海に飛び込むことを考えた。魚釣りで好きだった海は、恐ろしい存在に変わっていた。泣きに泣いて横になった、ある暑い夏の夜のことだった。夢の中で、あるメッセージが降りてきた。「一度切りの人生、ネガティブに不幸を呪うくらいなら、ポジティブに希望を求めて生きろ」。
その後のヒロさんの人生は一変する。県立盲学校には高校卒業後3年間の理療科(鍼灸の専門課程)まで通った。理科の先生の影響を受けてアマチュア無線にはまり、時差のない豪州から聞こえてくる英語に心躍らせた。英語を学びたい、一般の高校生とも交流したいと、YMCAの英会話スクールに通った。これは英語の先生のアドバイスだ。殻の中に閉じこもるのではなく、社会に踏み出していくことの喜びを知った。
県立盲学校を出たら地元で開業するはずだった。しかし2人の先生の影響もあったのだろう、教員を目指し、筑波大学理療科教員養成施設(2年間)に入学。東京の一人暮らしを心配する両親を、ヒロさんはさらに慌てさせた。1年次の途中で米サンフランシスコ州立大学に留学したのだ。奨学金を獲得し、当時最先端の概念だった、障害者と健常者がともに学ぶ統合教育について学んだ。
ヒロさんはさらに人生を大きく展開させていく。留学から帰国後、筑波大学を卒業して教員になったが、英語を学び続けようと通った英会話スクールで米国人のキャレンさんと恋に落ちた。双方の家族の心配を少しずつ克服し、約5年の交際を経て結婚。29歳のときだった。
2人で千葉の稲毛海岸を散歩していると、マリーナを見かけた。キャレンさんにはヨットの経験があった。飛び込みで借りられないか尋ねると、障害者と健常者が一緒にヨットを楽しむ「ヨットエイド千葉」の活動が行われていることを知った。
ヒロさんはヨットにはまり込んだ。日本にはブラインドセーラーが30人程度いるそうだが、たった5年でベスト3に入り、2006年、日本代表として世界大会に出場した。
前後して子宝に恵まれた。愛娘のリナちゃんだ。1歳になろうかという頃、ヒロさんは決心する。子どもの教育を第一に考え、米国で暮らそう。でもキャレンさんの故郷、シカゴは選ばなかった。日本に近い西海岸、ヨットを愛する町サンディエゴ。ここで新挑戦しよう。安定した公務員の職を捨てた。年齢は39歳になっていた。