書かれた歴史はそうだけど、暁斎の生きた現実では違う。自分の目でその画業を見た人は、とにかくその天才に打たれる。筆が速く、適確で、機智に富み、紙の上にあっという間にイメージした世界があらわれる。だから席画2も得意で、有名書画家を集めての書画会3では一番の人気があった。当然ながら酒が入り、笑いがあふれ、筆は縦横無尽。あるときその筆の滑った戯画が「貴顕を嘲弄するもの」とみなされ、捕えられる。この筆禍事件も、美術史から敬遠された一因なのかもしれない。それまでの狂斎の号も、放免後は暁斎に改めている。
そもそも暁斎の生きた幕末明治という時代が、美術の世界でも激動の時代だった。オーソドックスな絵の世界では大スポンサーであった幕府が倒れ、狩野派をはじめとする絵師たちは路頭に迷う。それを横目で見ながら、ちょうど脂の乗ってきた暁斎は、求められるものは何でも描いた。あれも描いてこれも描いてという暁斎の才能は、この時代の吸引力に沿って加速していったわけだ。
美術館は西川口の駅から歩いて20分ほどの、静かな住宅街の中にある。正にひっそりと紛れてある感じで、まったく出っ張ったところがない。さっぱりと静かで気持いい。ここにあの過激でもある暁斎の絵が納められていると思うと、不思議な気がする。ひっそりと紛れた感じは、それもそのはず、もとは暁斎曾孫である河鍋楠美さんの住宅を少しだけ改装したものなのだ。
暁斎が晩年住んだのは東京の鶯谷で、暁斎亡きあと河鍋家は赤羽に住む。ところが第二次大戦中の強制疎開で、いまの埼玉県蕨市に引越してくる。娘の暁翠(きょうすい)も暁斎の血を継いで達筆の絵師で、女子美の草創期に教鞭をとった人でもあったが、どう励んでも父暁斎を抜くことはできぬと悟り、娘の吉には絵に進むことを禁じ、その禁は楠美さんまで引き継がれている。じつはその河鍋楠美さんがここの館長であり、そもそもこの記念美術館の創設者だ。
その楠美館長のお話は濃密で面白く、見知らぬ暁斎の熱気を透かし見るようだった。楠美さんも白い紙や壁を見ると、動きたくなる右腕を押さえるという。やはり絵師の血が脈打っているらしい。曾祖父である暁斎とは接していないが、家には暁斎の残した下絵の束がどっさりあった。人気絵師の運命で、描いた絵は端から出ていく。残るのは下絵だけど、それには本画以上に「描く」という行為の熱気がむんむんあふれ出ている。暁斎の場合その下絵が綿密で、ところどころ紙を貼り重ねたりしながら、何度も描き変えている。仕上がった絵とは違い、絵の過程を彫り上げた三次元の彫刻みたいだ。あるいはフィルムなき時代のムービーみたいだ。それが桐の箱にぎゅうと詰まり、いざ本格的に調べだしたら3000枚を優に超えた。
注2)宴会や集会の席で即席に描いた絵。
注3)書家や画家が、その作品を求める人たちのために会費をとって製作する会。