幕末から明治にかけて、自らを “画鬼” と称する貪欲さで制作に明け暮れた河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)は、海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師でした。
しかし後裔の努力が、今またその多彩な作品群に脚光をもたらしつつあります—―。
自分が河鍋暁斎の名を知ったのはいつからか、はっきりしない。でもその名を意識したのは、その昔、ジョサイヤ・コンドル1が弟子として入門したという話を聞いてからだ。コンドルは文明開化の時代に来日したイギリスの建築家だ。鹿鳴館やいろいろ、当時日本では最尖端の西洋館を建てている。そんなハイカラ人物が入門したということに意表をつかれ、それはやっぱり凄い絵師なのだと思い直した。
ぼくは日本人だから、どうしても西洋上位の習いがあるらしい。だからコンドル入門という話から、暁斎の名に注目したのだ。順序逆で自分でも情ないと思うのだけど、事実なのでしょうがない。
河鍋暁斎をめぐっては、いろいろと日本人的な偏見が煙幕となって漂っている。一つには暁斎が多才であり過ぎたため、どれが本物なのかわからないと敬遠された。日本は多神教の国でありながら、多彩な才能というのはむしろ軽く見られる。一つのことだけを一生かけてこつこつやる、となると安心して評価される。
しかし暁斎だって、その生涯は絵を描くこと一筋だった。七歳で歌川国芳に入門、10歳でさらに狩野派の絵師に入門、以後死ぬまで休みなく絵を描きつづけている。でもその絵の様式がじつにさまざまだ。狩野派的なオーソドックスな絵をはじめとして、幽霊画あり、戯画あり、錦絵あり、紙袋のデザインありで、何でも描ける。旧来の美術史家としては扱いにくい。だから奇人変人的な扱いで近年の美術史からはほとんどその名が消えていたのだ。
注1)1852~1920年。