「決して色彩に鈍感ではない」
実を言うと、そんな派手さのない地味な色彩が私は嫌いではない。というか、好きである。色を語りだすと好みに左右されるので、ここで良し悪しの議論は生産性に欠けるのだけれど、原色が散りばめられた生活に慣れていない私にとっては、これはこれで、彼らがとても淡々と彼らの暮らしを続けている結果にすぎないように感じられて、その普通さに共感できて心地良い。
最近、日本から来て、数日をブルキナファソで過ごした人が「他の国に比べてブルキナファソは溌剌とした元気さが少ないですね」と言った。また別の人は「貧しいけれど、人が明るい。下を向いて歩いていない」と言った。一見正反対のことを言っているようでいて、ともに、短い期間ながらブルキナファソの日常を垣間見た感想だな、と思う。初対面でエネルギッシュな印象を与える人は確かに少なく、町全体としてパワーみなぎる色や音に溢れている訳ではない。でも、何かをあきらめるでも、無気力になっているでもないのがブルキナファソなのである。
ここでまた、川田氏の著書を思い出した。
――おおむね色彩はとぼしいのだが、・・・(中略)決して色彩に鈍感ではない。――
これは町並みについて書いたものではなく、サバンナの工芸品に使われる色を指した表現なのだが、表に見えている様子から連想するものだけが真実なのではないという、あらゆることに通じる当然の指摘に改めて気づかされた。表から眺めてばかりいずに、中に入らなくては。
ものづくり巡りで出会った「色」
物理的に門の中に入ってみると、おもしろい空間が広がっている、ということがブルキナファソには多い。というより、外観が人を惹きつけることを目的に作られていないのだろうなと思わせる場所が多く、中とのギャップがあるというだけかもしれない。
先日、ブルキナファソのものづくりに触れるべく、いくつかのアトリエを訪問した。色彩への敏感さも探してみたかった。
かつての無文字社会がなせる技なのか、目立つ看板やお店の場所を書いた地図なども特段ないことがほとんどなので、いつでもブルキナファソでの情報収集は口コミが基本になる。近くまで行って見つけられず、周りの人に聞いたり、すぐそばから電話して道順を再確認しながらようやく辿り着く。そもそもお店の存在も何かの機会に聞くことがないと知らないままなので、この一見地味なワガドゥグの町に、どれほど魅力的な場所が隠されているか、いまだにわからない。
休日に同僚と訪問したのは、ろうけつ染め作家の自宅兼アトリエ。自宅なので外観は横に並ぶ家とほとんど変わらない茶色い壁ながら、門にさりげなく小さめの絵が描いてあった。織物をする家族もいるらしい。庭先に干されていた染色したばかりの糸は、植物の色素を使用したものと、化学染料で染められたものとの両方があった。