しかし当時は、女性はお嫁に行くのが当たり前、それが女の幸せと誰もが思っていた時代である。兄たちの反対に対して、本人は迷うことはなかったのだろうか。
「なかったわね。将来結婚したいという気もなかった。それよりも、とにかく踊っていたかったから」
本人の強い意志と母親の応援が勝って、芸者置屋に奉公に出すなら浅草という母の意向に沿って、父が奉公先を探すことになった。当時、桂庵(けいあん)という仲介をする商売があって、そこを介して「新菊の家」に。まだ幼い13歳ながら、世の中の決める幸せではなく、自分の心の望む道を自分の足で歩き始めたのである。とはいえ、家族から離れての住み込み奉公。賑やかに家族と暮らした家を離れ、生活環境は激変して、しかも厳しい修業時代……のはずなのに、寂しいとか辛いという言葉はゆう子の口から一切出てこない。
家も置屋も歌舞音曲のあふれる世界。それを続けたいために飛び込んだ世界。そういう意味では寂しいよりもうれしい、辛いよりも楽しい日々だったのだろう。
仕込みっ子はお姐(ねえ)さん方の雑用を引き受ければ小遣い稼ぎができる。が、小遣いよりも稽古。芸者になるからには、少しでも上に行けるようにと、時間があれば唄、三味線、踊り、鼓と太鼓、笛の稽古に徹底して励んだ。みんなと同じことをしていたのでは芸で抜きん出ることはできない。
3年の仕込みっ子時代を経て、半玉(京では舞妓)を飛ばして16歳で芸者「里菊」としてデビューを果たした。昭和14(1939)年。当時の浅草は料亭もひしめき、芸者の数も300人以上。その中で売れっ子になるには大変な努力が必要になる。さらにその先は、置屋の抱え芸者から独立して自前の芸者になることが目標になる。自前になるには、お披露目や衣装、つきあいなどお金がかかり、援助してくれる旦那がいてこそ看板を掲げられる時代。何より旦那がいれば、金銭的な心配をしないで芸事にも打ち込める。
ゆう子に旦那がついたのは、一本立ちから4年たった20歳の時だった。
馴れ初めはお座敷での出会い。言問橋の近くで鼻緒屋を営む店の若旦那だった。
「細身に仕立てた着物を粋に着こなす人でね。おしゃれで様子がよくて、私が岡惚れしちゃったのよ」
惚れた人が旦那になって、独立して「分新菊の家」を構えた昭和18年は太平洋戦争のさなか。初めて好きな人ができ、その人には当然ながら奥さんがいる。芸者と旦那の仲とはいえ、女性として一緒になれない悲しさもあったのではないかと気になる。