小津安二郎監督(1903~63年)は、東京は深川の出身である。少年時代は三重の松阪で過ごしているのだが、東京への愛着はそれでいっそう深まったのか、「東京物語」(1953年)をはじめ題に東京という言葉のある映画を生涯に5本も作っている。とくに震災前、戦災前の深川の風情を知っている身としては、戦後は隅田川を渡って江東に行くのが辛い、と言っていたそうである。
小津安二郎は東京の下町の蒲田にあった松竹蒲田撮影所に関東大震災の直前に入って映画修業をはじめたのであるが、その先輩で蒲田調と呼ばれる明朗な都会的な映画の確立者であった島津保次郎(1897~1945年)は神田の大きな問屋の息子だったし、その一番弟子で蒲田調のもっとも洗練されたタッチをつくりあげた五所平之助監督(1902~81年)もやはり神田の問屋の息子である。小津安二郎の生家も深川で手広い商売をしていた裕福な家庭だった。
小津安二郎、島津保次郎、五所平之助、この巨匠たちはそれぞれに独自の個性的な映画をつくったのだが、共通していたのはホームドラマがなによりも得意で、家庭生活をじつにデリケートなタッチで描くことに妙を得ていたことである。なにげない自然な立居振舞の趣味の良さ、人間関係での気づかいやユーモア、洒落っ気などの表現を競ったのだ。
彼らを兄貴分のような立場で指揮した撮影所長の城戸四郎(1894~1977年)も築地の育ちで洋食屋として有名だった精養軒の息子である。つまり、いずれ劣らぬ東京の富裕な商人層の息子たちだったわけで、その意味で好みに共通性があってよく通じあうものがあったに違いない。
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もちろん蒲田撮影所の主軸のメンバーがみんなそうだったわけではなく、地方出身者や貧しい階層の出の人も少なくなかったはずであるが、もっとも実力と才気で目立った人たちがそうだったということは、撮影所の作風に大きく影響したに違いない。少なくとも、野暮を嫌い、軽妙さと人情を重んじ、情緒を大事にするといった傾向は蒲田調の基本となり、撮影所が1936(昭和11)年に大船に移転して蒲田調が大船調と言いかえられてもずっと受け継がれて多くの名作を生んだ。その最後の輝きは『男はつらいよ』シリーズである。作者の山田洋次は満州育ちだから東京のブルジョア層とは無関係だが、撮影所で先輩たちが何十年もかけてつみ重ねてきた伝統というものは、ひとつの型となって伝えられるものなのである。
当然のことながら東京出身の映画人は非常に多いし、近年になればなるほど東京出身ということの特性は失われて好みも全国的に平均化してくる。しかし明治生まれの世代には、とくに深川、神田といった江戸町人文化の粋のような土地の育ちの人たちにはそれが濃厚にあって、今日に伝わる映画のスタイルを生んだのである。