――そのような学問横断的な教養が必要とされる理由とは?
與那覇氏:以前、雑誌のリベラルアーツ特集でも答えたことがあるのですが、グローバル化した世界が「ローコンテクスト状況」への対応を要請していることがあげられます。つまり、同じ専門分野に属して「すでに互いの前提や文脈(コンテクスト)を共有ずみ」の人どうしの議論というよりも、価値観がバラバラで共通の体験も乏しい人々のあいだで商取引をするなり、プロジェクトを立ち上げるなりといったコミュニケーションをとらなくてはいけなくなる。「同じ文脈を共有しない人々との対話を成り立たせる技術」が求められてくるわけですね。
それを担うのが、さまざまな所属学部の学生がいっしょに学ぶ教養科目の役割だし、また学部教育における人文学/文系学問一般の意義でもあると、私は思っています。それらの科目というのは、単に薀蓄を集めて博覧強記を誇るためにあるのではなくて、より幅の広い人と会話し、相互に理解できるようになるための訓練(チュートリアル)だと思うんですよ。だから、学問分野にはいろいろあるけれど、一段階抽象度を上げてみると、どの分野にも共通する問いの立て方とか問題の構図とかがあるんだよ、ということを、本書でも示そうとしたんですね。
――しかしいまグローバル人材の育成と言うと、むしろ教養なんかは後回しでいいからとにかく語学力の強化だというイメージですよね。
與那覇氏:もちろん、語学力が大事ではないということではないんです。でも、語学だけを身につければなんとかなるかと言えばそうでもない。だって現に、日本人どうしが日本語で話していても、「話が通じない=使えない奴だ」と言われてしまうことがしばしばあるわけじゃないですか。話が通じないのは、無意識のうちに自分の側の文脈ばかりを前提にして、相手側にはまた別の文脈があることを意識化する作業ができていないからですよ。そういう、いわば比較文化のセンスがそもそもない人が、ただ外国語を身につけたからといってグローバル化に対応できるかと言えば、できないと思います。
教養教育の意義について、教養学部卒の自分には忘れられない思い出があるんですよ。98年に大学に入って01年に社会科の教育実習に行くわけですけど、その報告会で一緒になった文学部の歴史学専攻の学生が、「自分には大学の教養科目の意義がまったくわからなかった。たとえば哲学という科目名なのに、どうして脳死とかホロコーストとかだけでそれぞれ半年間も講義するんだ。実際あんなもん、教師になる上で何の役にも立たん」と言うんです。それらのトピックスがいま、哲学的に見て大きな問題になっていて、それを議論することで人間社会一般に通じる教訓とか、思考のヒントを導き出せるんだというメッセージが届いていない。自分の授業ではなんとかそこを突破して、所属学部や専門の壁に、風穴を空けたいと思ってきたんですね。