信長は「将軍」になれたのか
織田信長は足利義昭を擁して上洛し、義昭を十五代将軍に就けた。しかし両者はやがて対立し、信長は義昭を京都から追放する。これにより室町幕府は実質的に滅亡した。
それなら信長が自ら将軍になればよかったのではないか。実際、信長にはその可能性があった。天正10年(1582年)、武田氏を滅ぼした信長に対し、朝廷は太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに任じる「三職推任」を構想したとされる。
だが、ここで重要なのは、足利義昭が京都を追放された後も、征夷大将軍の肩書を失っていなかった点である。義昭は実権を失っても、形式上は将軍だった。信長が新たな将軍となるには、朝廷や公家社会がその秩序をどう扱うかという問題が残っていた。
信長は朝廷の官位を受けながらも、のちにそれらを返上している。天下統一を果たした後に、あらためて権威をどう設計するかを考えていた可能性がある。だが、その答えを出す前に本能寺の変で倒れた。信長が将軍にならなかったのは、なれなかったというより、既存の制度を超える新政権を構想していた途中だったと言える。
秀吉はなぜ「関白」を選んだのか
大河ドラマ「豊臣兄弟」で描かれる秀吉の時代は、出自や身分が政治に重くのしかかる社会だった。秀吉は尾張の下層民の出身とされ、源氏でも平氏でもない。従来の武家秩序の中で将軍になるには、足利将軍家との関係や血統の問題がつきまとった。
通説では、秀吉は足利義昭の猶子となって将軍になることを望んだが拒まれ、代わりに関白になったと語られることがある。しかし、実際には秀吉は早い段階で関白という道を選んでいたと見る方が自然だ。
秀吉は近衛前久の猶子となり、藤原姓を称して関白に就任した。さらに豊臣姓を賜り、既存の公家社会に入り込みながら、自らの新しい権威を築いた。将軍ではなく関白を選んだことで、秀吉は武家の棟梁にとどまらず、公家社会と武家社会の双方を統合する立場に立ったのである。
これは単なる肩書の問題ではない。秀吉は「武家関白制」とも言うべき新しい支配の形を作り、天下統一を進めた。将軍という古い枠に収まるより、関白という朝廷最高位の権威を利用した方が、自身の出自を超えるには有効だった。
