2026年10月7日(水)

解剖:「大きな政府」を好む日本

2026年10月7日

経世済民は政府支出の免罪符ではない

 政府が果たすべき役割はある。法の支配、公正な競争、教育、防災、安全保障、最低限の生活保障など、市民が自ら生きるための共通基盤を政府は確実に支える必要がある。その責任と、政府が産業の将来を決めることは同じではない。

 市民の活動を支えることと、市民に代わって投資先を選ぶことも同じではない。最低限の生活を保障することと、生活上の選択を給付と優遇措置によって誘導することも区別しなければならない。

 経世済民を現代によみがえらせるなら、政府が何を追加するかより、国家の役割をどこまでに限定するかを問うべきである。

 政府が担うべき共通基盤を明確にし、その役割へ資源を集中する。それ以外の領域では、市民、企業、地域、中間組織が自ら判断し、試み、協力できる余地を広げる。それは政府を弱くすることではない。

 あらゆる領域へ介入するために膨張した政府から、担うべき仕事を確実に果たす政府へ変えることである。政府による救済を増やすことより、政府による継続的な救済を必要とする人と企業を減らすことに、政策の重心を移すことである。

「民を救う国家」から「市民が生きる社会」へ

 高市内閣は「経世済民」を掲げる。しかし、その政策の主語は一貫して国家である。

 国家が投資先を選び、国家が産業を育て、国家が企業の投資を誘導する。その結果として成長が生まれ、雇用と所得が増え、国民生活が豊かになると高市内閣は想定する。つまり、市民が自ら豊かさを生み出すのではなく、国家が成長をつくり、その成果を市民へ届けるという国家主導の発想である。

 これは「民のための政治」ではあっても、「民による経済」ではない。

 経世済民の目的が民の暮らしにあるなら、その成否は政府支出の規模やGDP成長率だけで測れない。市民が自由に使える所得を持ち、働き方を選び、事業を始め、地域の課題に取り組める生活余力が広がったかどうかで測るべきである。

 国家を強くし、その力で民を救う。その考え方こそ、日本が明治以来繰り返してきた国家主導型経済の核心であった。

 高市内閣の経世済民は、その歴史を克服するものではない。新しい道徳的な看板を掲げて、同じ道をさらに進もうとするものである。

 経世済民とは、政府が民を救い続けることではない。市民が政府の支援を待たず、自ら生活を築ける条件を整えることである。

 問われるのは、政府が何をしてくれるかではなく、市民が自ら何を選び、何を生み出せる社会をつくるかである。経世済民の主語は国家ではない。市民である。

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