思惑通り使ってもらうことができたのだが、写真の下にクレジットとして「ホースマン」と入れてほしいという要望は通らなかった。ところが、この専属写真家が同業者から、「使っているカメラは?」と、問われると「ホースマン」と答えてくれたことで名が知れ、販売も拡大した。
駒村さんが入社したのはこの頃で、1968年(昭和43年)のことだ。入社早々「お前は、海外で売ってこい」と指示を受けた。理由は大学のゼミで「貿易実務」と「商業英語」を専攻していたから。当然、ビジネスとして通用するものではなかった。
しかし、駒村さんは「英語を勉強するつもりはなかった」という。「英語はあくまでコミュニケーション・ツール。であれば、使って身に付ければいい」。週末になると帝国ホテルに出かけ、外国人に「私が案内しますよ」と声をかけた。怪しむ人もいたが「英語の勉強がしたい」と説明すると、快く受け入れてくれる人もいた。これによって英語のスキルを磨くと共に、「外国人と話す度胸をつけた」。
海外出張で最初に向かったのはパリだった。当時は、アラスカのアンカレッジ経由で向かった。外国為替管理法で300ドルしか現金の持ちだしができないので、長く滞在するには「カメラを売って現金化する」しかなかった。パリでカメラが売れると「リド」や「ムーランルージュ」などのフレンチカンカンショーに向かった。
あるとき、シャンゼリゼの「リド」で客の写真を撮る女性カメラマンが使っているカメラが「ホースマン」であることに気が付いた。思わずかけよって「This is my camera」と言うと「This is my camera」と言い返されたという。
パリの帰りにはよくニューヨークに寄った。米国での販売代理店を探すためだ。書店に行き、カメラ雑誌を片っ端から見て、「ホースマン」を扱ってくれそうな広告主の会社を訪ねた。米国人と打ち解けるのに役立ったのがカントリーミュージックだった。趣味だったこともあり「カントリーの英語だけは完璧で、アメリカ人の前で歌うと大ウケでした」。
いざ、代理店契約をするということになると、英文で契約書を作らなければならない。海外の弁護士のもとに毎日通っては添削してもらった。この英文を書き直すという繰り返しも、ビジネス英語の勉強になった。