ここでいっている利口さとは、小才のきく連中のことである。孔子のいっている、「巧言令色」の者をいうのであろう。
こういう人間の習性は、いざこざが起きると、我関せずのような顔をする。そして、逃げきれないと責任転嫁に奔走する。このような人物が人々から信を得るということはありえない。
『葉隠』の理想とする人相観が出てきている。これは日本人の帝王学でもある。やはり人をリードするには、それだけの器でなければならない。
ことばの変化に、文明の軟弱さが表れる
最近、とくに気になっていることがある。「……をする」と表現すればたりるところをわざわざ「……させていただく」という言辞である。それは細川政権以降とくに目立つようになった。なぜそのような表現が流行っているのだろうか。受け身表現は敬語的発想からきているものであるが、どことなく弱々しい。主体が先方にあり、自分は客体になっているのだ。つまり相手に迎合している姿である。心の軟弱がこういう言葉になって表れる。言葉に責任をもつ姿ではない。
「苦味ばしって強みある」姿ではない。武士道とは相容れない姿である。イジメにみるごとく、人は言葉によって命を絶たれる。それほど言葉は大切なのである。にもかかわらず男が女的に受け身的になってしまったことは、それだけ衰弱した社会といわなければならない。時代を切り開く者はその時代にたいして受け身であったためしはない。カエサルしかり、ナポレオン、信長、秀吉、家康またしかりである。
人間は言葉によって自分の姿を表現し、伝える。言葉の発明によって人類は進化してきた。また人は自らの言葉によって引きずられる。否定的な言葉を発すれば暗くなり、さらに否定的となる。哀しい言葉を発すればさらに哀しくなり哀しさが伝染する。人間は言葉を発し、言葉に引きずられるのだ。このことは子供の教育をみれば顕著である。「お前はダメだ」と幼児期から発していれば、おそらくダメな人間に育つだろう。やがては、「そんなことはいわれなくてもわかっている」と反撃し、親殺しとなる。もちろんその逆も真である。それほど言葉というものは重要なのだ。