そもそもの発端は、中国の歴史書『三国志』にある。「魏書」第30巻、一般には「魏志倭人伝」と呼ばれている部分である。曰く、卑弥呼は邪馬台国に居住し、「鬼道」(道教のことか?)で人々を惑わした。248年ごろ没したが、その際、直径100余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。
卑弥呼伝説に思いをめぐらす
謎めいた記述を残してくれた中国人に感謝
謎めいた記述をめぐり、卑弥呼の人物比定や邪馬台国の所在について、古くは本居宣長の時代から、さまざまな説が唱えられてきた。「魏書」が書かれた3世紀末、日本はまだ無文字社会である。『古事記』の成立には400年ほどある。つまり中国の歴史書という間接的文献による言及しかないことが、確たる決め手を欠いたまま、論争を泥沼めいたものにしていったのだ。
箸墓という奇妙な名前は、古く『日本書紀』にも登場する。それによると被葬者は孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命である。有名な崇神天皇10年9月条には、箸でホトを突いて亡くなった姫命を悼み、人々が墓を造ったときの様子が記されている。「昼は人が造り、夜は神が造った」とか、「大坂山(現在の二上山といわれ、箸墓とは15キロほど離れている)の石を手渡しで運んで造った」といった具合に、墓の築造が大規模なプロジェクトであったことを窺わせる。
箸墓=卑弥呼の墓とされる根拠は、主なものとしては三つある。(1)『日本書紀』によると、倭迹迹日百襲姫命はシャーマン的な人物として認識されており、これは「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の性格と重なる。(2)最新の研究によると、墓の築造は240年から260年のあいだと推定されている。「魏志倭人伝」は、卑弥呼の没年を248年ごろとしているから、年代も合う。(3)サイズ的にも、箸墓の後円部径は約160メートルであり、「径百余歩」という記述とかけ離れたものではない。
材料は揃っている。でも、決定的な証拠がない。先にも触れたように、この時代の日本には文字がなかった。当事者たちによる記録がないことが痛い。加えて古墳は陵墓指定を受け、宮内庁によって厳重に管理されている。墓を暴くことにもなる古墳本体の調査は、ほとんど行われていない。周辺のごく一部が発掘され、そこから出土したものによって推定するしかないのだ。どうやら卑弥呼の謎は、天皇制の謎でもあるらしい。
でもまあ、おかげで1700年後のぼくたちが、ああでもない、こうでもないと熱い議論を交わすことができるのだから、謎めいた記述を残してくれた中国人に感謝である。ついでに宮内庁にもちょっとだけ感謝しよう。卑弥呼と邪馬台国をめぐり、自由に想像し、空想を広げ、妄想しながら歩く、春の大和路は格別である。
日も傾いてきた。ぼくたちは桜井駅から近鉄で伊勢松坂へ向かう。時間の都合で、ここは特急を使うことにする。2時間半足らず。駅前のホテルにチェックイン。松坂の夜は鶏だった。もちろん牛も美味いが、今夜は鶏なのだ。各種刺身がお勧めということ。
でも、まだ先がある旅なのでナマは遠慮し、若鶏の肉を網で焼いて塩と味噌ダレの二種類でいただく。美味い!それに焼酎。甘酸っぱい梅のエキスを少し垂らして飲むのが、ご当地の流儀。郷に入っては郷に従え。さっそくやってみる。韓国のJINROに似たさっぱりした味である。