翌日は早めにホテルを出て伊勢に向かう。昨夜、鶏を食べたせいか、二人とも肌がツヤツヤしている。今日は一日、「善男シニア」と化してお伊勢さんに参詣するつもりなのだが、この脂の乗り切ったツヤツヤ顔は大丈夫だろうか? 肉食を嫌う神様がご立腹されるようなことは、ないよね? 伊勢神宮といえば、全国の神社の大本営、総本山である。津々浦々の神社、ご近所の氏神さまは、支店や出張所みたいなものだ。鳥居をくぐればみんなつながっている。
『日本書紀』のなかで、「神宮」と呼ばれているのは、伊勢と出雲と石上の三つだけ
それにしても伊勢神宮、名前からして神格の違いを窺わせる。なにしろ「神宮」である。普通は「神社」でしょう。『日本書紀』のなかで、「神宮」と呼ばれているのは、伊勢と出雲と石上の三つだけだそうだ。その後、しだいに伊勢だけが「神宮」として残り、平安時代には、ほぼ神宮=伊勢になった。
現在では、「神宮」を名乗る神社は全国にかなりあるが、本来は皇室の遠祖を祀るという意味があったのだろう。とくに伊勢神宮は、6世紀ごろから天皇家の崇拝を受け、ご承知のように、明治以降は国家宗教の中枢として「悪用」される。これは維新政府の意図(首謀者は岩倉具視あたりか?)が大きかったようで、見方によっては被害者であるとも言える。
このように特別な処遇を受けてきた伊勢神宮だが、歴史をひもとくと、ずっと順風満帆であったわけではないようだ。戦国時代には100年以上も式年遷宮が途絶え、内宮も外宮も荒れ放題という時期もあったらしい。豊臣秀吉による天下統一がなされてから、ようやく内宮と外宮の同年式年遷宮が実施され、これが徳川政権に引き継がれる。そして3代将軍家光のころから、現在のような20年ごとの遷宮が定着した。昨年はちょうど、この遷宮の年にあたり、伊勢は大いに盛り上がったらしい。芸能人や有名人を巻き込んで過熱し、すっかり観光地化してしまったという話も聞く。そのあたりを善男シニアは冷静に見ていきたい。さて……。
ワァッ!なんだこりゃ~。ひと ひと ひと……と、いきなり冷静さを欠いているが、これは折口信夫の『死者の書』ではない、参道を埋める人の多さを描写しているのである。いったいどこから湧いてきたのだ、と自分たちも湧いてきたことを忘れて言い放ちたくなるほど、聞きしに勝る人の多さである。いやあ、まったくのお祭り騒ぎ。何年か前に訪れたときは、こんなふうではなかった。式年遷宮ブームが尾を引いているのだろうか。「スピリチュアル」という得体の知れない言葉もよくないのかもしれない。それにしても、物を喰いながら歩く若い人たちの姿が目につく。この寒空にミニスカートのきみ、みたらし団子食べながら歩くのはよしなさい。美しくないぞ!
200年前と変わらぬ
参宮の旅人たえ間なく、繁盛さらにいふばかりなし
なぜか怒っている。でもまあ、これが本来の伊勢の姿なのかもしれない。江戸時代の末期には、遷宮の翌年に参詣する「お蔭参り」ブームなどもあって、伊勢は信仰を核とする巨大な観光地になっていたらしい。ご存知、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、弥次さん喜多さんが伊勢参りをしている。本来、東海道は伊勢を通らないから、わざわざ寄り道をして参詣したのだろう。文中「参宮の旅人たえ間なく、繁盛さらにいふばかりなし」と、門前町の賑わいを描写している。さすがは弥次・喜多、すでに二百年前に「裏ななつ星in伊勢道中」をやっていたわけである。
俳聖・松尾芭蕉も生涯に何度か伊勢を訪れている。
たふとさにみなおしあひぬ御遷宮(『泊船集』)
元禄二年(1689年)には9月10日に内宮、13日に外宮の遷宮式が行われたらしい。そのときの群衆の様子を詠んだものとされる。いかにも「押し合いへしあい」の様子が伝わってくる。江戸時代の庶民にとって、伊勢参りは一生に一度はかなえたい願いだった。先にも少し触れたように、とくに式年遷宮の翌年は、神の御蔭(加護)をこうむると考えられて参詣者が多かった。古い社殿のすぐ隣に新しい社殿を建てるため、遷宮後しばらくは新旧両方の社殿に参拝することもできる。