“分散型”の絆とは……
確かに親子の愛情に、金銭は介在しないかもしれない。けれど、金銭以外のもの……たとえばエゴのようなものが存在するとしたら、それは金銭以上に重い“負荷”になるとは考えられる。そして、そうした“負荷”の爪痕に悩み続ける女性たちを私は数多く見てきてもいる。
なお、こんな発言をするからと言って、彼が特別に愛情なく育てられたというわけではまったくない。
「親からは、世間並み以上の愛情を注いでもらったと思います。だけど、それ以上に自分には、あらゆることを客観視する習性があるんです」
そのせいなのか、学生時代から同級生との距離の取り方に思い悩み続けてきた。
「それで結局は、どんなときでも一人で過ごすことが多かったですね。自分から誰かを誘ったり、自分を強く押し付けたりもできないようになりました。その代り、誘われたらたいていは断りませんが……」
彼にとって、あらゆる関係は、2つにしか分類できないという。
自分と「自分以外のみんな」。
友達の親しさに、“濃淡”や“違い”はなく、親友とか、友人とか、知人とかの境界や区別もない。
等価交換が絆のベース
「全員が等間隔なんです……等価値であるといいますか。たとえば社会的な価値観が同じ人、エグい悩みを共有できる人、趣味嗜好が似てる人……それぞれとは、“共有できる部分”で繋がっていればいいですし、一人にそれ以上の関係を求めてはいけないと思うんです」
彼は、そんな絆のあり方を「分散型」と表現した。
分散型の絆では、すべての関係は“利害”で繋がっている。
「利害……というより正確には、“等価交換”と言った方がより近いかもしれません。自分のニーズが100あるとしたら、そのニーズを一人の相手に求めるのは無理だと思うんです。多数の人と少しずつ共有することで、自分の受け取る合計が100になればいいと思う。一人の人に100%の“自分”を受け入れてもらおうとするのは、エゴでしかないですよ」