恋愛も“分散対象”の一つ
うーん、なるほどなーとは思いつつも、やはり「それでいい」と言い切ってしまうには、物足りなさを感じてしまう。誰かと強い関係を結びたいと思ったり、誰かの一番でありたいと小野寺さんは思わないのだろうか。
「そうですね、一番という考えは、自分には持ちづらいですね。何か目的があるごとに共有できる誰かがいる……そのみんなが大切ですし、共有するものがそれぞれで違うので、順位はつけられないんです。……まぁ、自分は男だからこんなふうに思えるのかもしれませんが」
確かに、男女では他人に求める“広さ”や“重さ”が違うような気はする。
「では、恋愛は?」と聞いてみると、
「恋愛は難しいですね。自分は学生時代から10年間、恋愛面では空白の時間を過ごしてきましたから……。恋愛も結婚もできないと思って生きてきたので、“分散型”ですべてのことを進める癖があるんです。恋愛も“分散する”関係の一つと考えると、ラクなのかもしれません」
「あえてそうしている」というよりは、「そうするのが身に染みついている」「結果的にそうなった」という意味なのだと思った。
“絆”を叶える条件
しかし小野塚さんを取材して、気づかされたことがあった。
私が“絆”というときに使っているイメージの内容が、2つに分類できるということだ。
一つは、「時間や空間」を共有すること。つまりは、物質的な共有。
もう一つは、「思い」の共有、つまり、精神的な共有だ。
そしてこのシリーズのテーマであるところの“絆”という概念のベースとなる(既存の)「夫婦の絆のあり方」が、「時間・空間」と「思い」の両方を共有するという前提であるならば(別居夫婦は、「時間・空間」を共有しておらず、仮面夫婦は「思い」を共有してないなどの特殊ケースは除く)、その両方を叶えるものこそが、新しい“絆”としての課題をクリアしていることになるだろうか。
もう一つ。
夫婦をベースにして考えると、「時間・空間」「思い」の共有が、「未来に続くと確信できる」かどうかもあるだろう。