“絆”は後からついてくるもの
「未来」については現時点では確約できるものではないので、「信じられるか、どうか」ということになる。たとえば、夫婦関係でいうなら、同棲よりは法で認められた夫婦のほうが、「未来も夫婦である可能性が高い」と「信じられる」とは言えるだろう。
そういう意味で言うと、“絆”には、「時間・空間」「思い」の共有に加えて、「未来に続くかの信頼性」のようなものも必要かもしれない。
……と、ここまでを書いてきて、ようやくリンクできたのだけれど、小野塚さんのいう“分散型”とは、「時間・空間」を共有と「思い」の共有をあえて分けることで、最終的に両方を叶えようとする「方法」の一つになりえないだろうか。
つまり、一般的な考えでは、「思い」がないと「時間・空間」は共有できない気もするが、「思い」を先に求めると、苦しくなることはある。たとえば、婚活をしている人が、理想の人に出会えないのでずっと一人でいるというような。
しかしこの2つの要素をあえて分け、「時間・空間」の共有を先にすることができれば、「思い」はあとからついてくる場合もある。たとえば、同じ部活を選んだ者同士が生涯の親友になったり、偶然、職場が一緒になった同僚と結婚することになったり。
“利害”があるからスタートできる
そして大人になると、「職場」以外で「時間・空間」を共有する人を作るのは難しい。でも、彼の言う「利害」という概念を持てれば、関係をスタートすることは容易になる場合もあるだろう。
たとえば、「ノートを借りたいから優等生に近づいた」とか、「お醤油を借りたからお隣さんとあいさつするようになった」とか。その結果、関係が築かれるのならば、それはそれで“あり”なのではないか。
……などと考えていたときに、玄関でガラリと戸が開く音がして、住人の一人が帰ってきた。
彼女は台所に立ち寄ると、扉越しに小野塚さんに話しかけ、しばらく、言葉を交わしていた。その後、小野塚さんは立ちあがり、彼女の近くまで行くと、彼女を伴って居間に戻ってきた。
利害という名の“大義名分”
「住人の○○さんです。お2人も話が合うと思いますよ」
彼が紹介してくれたのは、会社のほかにNPOに参加しているという女性で、簡単に自己紹介をすると、「今から出かけるので、またゆっくり」と言って、慌ただしく出て行った。
短いやり取りではあったが、彼女と小野塚さんの間に流れていた“空気感”に、「これが彼の意図した“距離感”か」と感じるものがあった。
家族……では、確かにない。
恋人でもないし、同僚でもない。
だけど、毎日、いくらかの時間を同じ空間で一緒に過ごし、顔を合わせたり、言葉を交わしたりする。
自分の予定を細かく話さないし、未来も一緒かというと、「わからない」。
関係を始めた時点では「気が合っていた」わけでもないし、そもそも知り合いですらなかった。