FIFAランキングではリトアニアは現在123位(2015年11月5日発表)。209の国と地域によるランキングでは真ん中よりやや下がるポジションとなる。ちなみに日本は50位で、リトアニアの最高位は、2008年10月の38位。現在の日本代表よりも上となるポジションにつけていたこともあるわけだ。
「2008年の代表チームの多くは1970年代から1980年代始めに生まれた選手から構成されていました。イタリアでプレーしたトマス・ダニレビシウスは代表チームのキャプテンを務めた長身フォワード。
エドガラス・ヤンカウスカスはポルトガルのポルトで2003-2004シーズンにUEFAチャンピオンズリーグ優勝、デイヴィダス・シェンベラスはCSKAモスクワで2004-2005UEFAカップを獲得しました。彼らを中心とした多くの選手が当時ピークを迎えており、 さらには2007年のリトアニアリーグの経営状態は非常に良く、強化が図れた年でした。
これら全てが代表チームにプラスとして作用し、2008年にFIFAランキングで38位となることができました。しかし、世代を継いで代表の強化を実現することは難しく、この時の主力選手は既に引退したか、引退に近づいているような状況です」
現在リトアニアサッカー協会は2020年まで4つの柱で強化策を実施している。
「グラスルーツ、プロリーグ、インフラ整備、それにサッカー文化。この4つを発展させることで、リトアニアサッカー協会はプロフェッショナルな組織へと変革し、サッカーがリトアニアで最も人気のあるスポーツになれるよう目指しています。
現在の代表チームには、1980年代後半から1990年代始めに生まれた世代が台頭してきており、2013年にはU-19代表チームがUEFA U-19欧州選手権を戦いました。彼らのうち何名かはプロサッカー選手として成功を手にしており、リトアニアサッカーの希望の星となっています。ただ、リトアニアサッカーが世界で戦うためには、もう少し時間が必要になると思っています」
海外でのコミュニケーション
そんなサッカーがまだスタートしたばかりのリトアニアだが、国内リーグは1部THE A Lygaが10チーム、2部リーグLyga 1が18チームからなる。
麻生弘隆選手がプレーしたのは、リトアニア2部のFKタクラス・タウラだった。実はその麻生選手には、Jリーグでの経歴がない。日本では 北信越リーグのフェルヴォローザ石川・白山FCや岩手県の社会人チーム八幡平トーレゾールなどでプレー。
22歳で一度現役を引退し、札幌国際大学でGKコーチを務めていたり、ステラミーゴいわて花巻でフットサルのゴレイロ(GK)としてプレーしたこともある異色のプレイヤーだ。2年前、オーストラリアの北東、パプアニューギニアの東に位置するソロモン諸島でプレーし、初めての海外リーグを経験した。
「海外で感じるのは、やはり個の能力を求められるということですね。海外でプレーするには、何か一つでもスペシャルなものを持っていないといけない。特に一人で局面を打開する能力を求められると思います。
あとは、どうチームメンバーとコミュニケーションをとるのか。私は、言葉の違いや文化の違いを受け入れて、その中で日本の良いところは残すような取り組みをしています。高校時代に短期留学したブラジルやソロモン諸島だと、積極的に話しかけてきてくれたので、比較的溶け込みやすかったのですが、リトアニアだと自分から積極的に話しかけたりしないと上手くいかないなど、コミュニケーションの取り方については、国によって様々だなと感じています」
今シーズンはリトアニアの2部リーグに挑戦したが、海外でのプレーに対する気持ちも少しずつ変わってきているという。「20代前半までは、サッカーにモチベーションを置いていましたが、今はサッカーだけではなく、将来を見据え、人として成長できる海外で生活するということに重点を置いています。今しかできないことをやると言いますか、海外で暮らす手段としてサッカーがあるみたいな感じですね」