2024年11月22日(金)

古都を感じる 奈良コレクション

2009年10月27日

 聖武天皇遺愛の品に「長斑錦御軾〔ちょうはんきんのおんしょく〕」がある。御軾とは脇息〔きょうそく〕、ひじかけのこと。よく見ると片方へゆがんでいる。聖武天皇がもたれていたためだろう。今はもうこの世にはない聖武天皇の肉体、もう決して触れることのできない聖武天皇の肉体を、光明皇后はこのゆがみに見出してしまったに違いない。光明皇后は耐えられなかった。宝物に聖武天皇の痕跡を見出すたびに、光明皇后の体の奥に刀で切られたような鋭い痛みが走ったのではないか。分かる気がする。私的なものほど思い出は深くなる。正倉院宝物は、ひとりの女性の耐え難い悲しみから生まれたことを記憶しておきたい。

 ところで宝物の目録を作成する時、宝物の順番は大切であろう。聖武天皇遺愛の品々を大仏に献納するのだからなおさらである。この目録はどういう順番に書いてあるのだろうか。

 真っ先にあげられているのは「御袈裟九領」である。袈裟が9枚。袈裟は僧侶が身につける衣。師僧が悟りを開いた弟子に授けることがあり、仏法を象徴する品でもある。聖武天皇は出家しており、大仏に捧げる最初の品が袈裟だったことは納得できる。「御」とあるのは、まさに聖武天皇の袈裟だったからである。

 では、目録に記載された最後の宝物は何か。「御床二張」である。御床〔ごしょう〕はベッド。聖武天皇と光明皇后が使用したふたつのシングルベッドを記して宝物目録は終わる。御床はもっとも私的な思い出の品と言える。袈裟から始まり、ベッドで終わる。よくできた順番だと思う。

 聖武天皇遺愛の品々を大仏に献納した同じ日に、光明皇后は60種の薬を21合の唐櫃に納めて大仏へ献納した。聖武天皇は若い頃から病気がちだったので、これらの薬は聖武天皇のために集められたものであろう。しかし聖武天皇はもういない。薬があってもそれを服する大切な人がいない。それでは意味がない。目に触れると辛くなるばかり。そこで光明皇后はこれらの薬も大仏に献納することを思い立つ。献納時の目録である『種々薬帳〔しゅじゅやくちょう〕』をみると、これらの薬は病に苦しむ人たちのために用いてもらいたいものであり、これを服すと「万病悉除(どんな病気も治る)」「千苦皆救(どんな苦しみも消える)」と書いてある。そしてさらに「無夭折(幼くして死ぬことはない)」とあるのが胸を打つ。

 光明皇后の子どもは夭折したからだ。

 聖武天皇と光明皇后との間にはまず女の子が生まれた。のちの孝謙天皇(称徳天皇)である。それから9年が過ぎて、ようやく待望の男の子が生まれた。聖武天皇はこの皇子を生後1ヶ月で皇太子にした。前代未聞の赤ちゃん皇太子である。聖武天皇と光明皇后がこの赤ちゃんにどれほど大きな期待をかけていたかがよくわかる。しかし、赤ちゃんは病気だった。聖武天皇も光明皇后も必死で看病したがどうしてもよくならない。これはもう仏教の力にすがるしかないと思った二人は、観音像を177体も造り、観音経を177巻も書き写したが、薄幸の皇子は満一歳の誕生日を迎える前にこの世を去った。

 『種々薬帳』の文言を記しながら、光明皇后は今は亡き聖武天皇のことを思い、そして同じく今は亡きわが子のことを思ったに違いない。これらの薬は光明皇后の願い通りに使用され、光明皇后が創設した施薬院にもしばしば提供された。それでも60種のうち40種が正倉院に現存しており、正倉院展にも時折展示されている(今年は出ていない)。

 正倉院の中は三つの部屋に分かれ、向かって右から北倉・中倉・南倉と名付けられている。聖武天皇の遺愛の品々と薬が納められているのは北倉。正倉院宝物、特に北倉の宝物をみる時には、光明皇后の耐え難い悲しみに思いをはせよう。そのとき宝物はまったく違ってみえてくるはずである。

          *次回更新予定日は、10月30日(金)です。

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