今年も正倉院展の季節が来た。この時期ばかりは奈良も人がいっぱいで、奈良国立博物館の展示室では美しい宝物を前にして思わず歓声が上がる。
聖武天皇は天平勝宝8歳(756)5月2日に亡くなった。56歳だった。
それから49日が過ぎた6月21日、光明皇后は聖武天皇が大切にしていた六百数十点の品々を東大寺の大仏に献納した。これが正倉院宝物の始まりとなる。
なぜ、光明皇后は聖武天皇の遺愛の品々を献納したのだろうか。
普通、ご主人が亡くなって大切な品が残されたとき、奥さんはそれを自分の手元に置いて(少なくともしばらくは)大事にするものだ。よほどイヤなご主人で、亡くなってせいせいしたという場合は別だが……。そうであるならば、なぜ光明皇后は聖武天皇の遺品を手元に残さず、すべてを手放してしまったのか。
その理由は本人に聞くのがよい。光明皇后ははっきり理由を書いてくれているからだ。
聖武天皇の遺愛の品々を大仏に献納する際、光明皇后は目録を作成して宝物に添えた。それは『国家珍宝帳』とよばれる14・7メートルの長い巻物で、冒頭に光明皇后自身が作成した哀悼の意に満ちた文章があり、続いて六百数十点の宝物の名前が書き連ねられ、最後に宝物献納の理由が光明皇后自身の言葉で述べられている。
宝物献納の理由、キーワードは「触目崩摧」の四文字である。聖武天皇が大切にした品々は光明皇后にとっても思い出の品であったはず。それが手元にあれば、当然のことながら目に触れるだろう。目に触れると、さまざまなことが思い出される。聖武天皇が元気だった頃のこと、ふたりが幸せだった日々のこと。それがあまりに悲しくて、そして辛くて、光明皇后には耐えられない。悲しみの余り、心が崩れ、摧〔くだ〕けてしまう。そうであるならば、思い切ってすべてを大仏に献納し、あわせて聖武天皇の冥福を祈りたい。光明皇后が宝物献納を決意したのは悲しみに耐えられなかったからである。