本阿弥光悦作
江戸時代(17世紀)
東京国立博物館所蔵
――その1つが、本阿弥光悦や尾形光琳らが創り出した芸術なのですね?
中尾教授:高い教養、豊かな財力、斬新な発想を兼ね備えた光悦は、書や陶芸、漆芸などさまざまな分野で才能を発揮しました。本阿弥家と姻戚関係にある尾形家(光琳・乾山兄弟の実家)も「雁金〔かりがね〕屋」という大きな呉服商で、法華宗の信徒でした。また、長谷川等伯は石川県能登の出身ですが、菩提寺が日蓮宗の寺であったことから仏画を多く描いていました。京都に出てきてからは本法寺の日通というお坊さんに庇護され、お寺で暮らしながら絵を描いていたそうですよ。
本阿弥光悦作 江戸時代(17世紀)
京都 相国寺所蔵
――本阿弥光悦は晩年、京都の鷹ケ峰に職人や芸術家を集めて「光悦村」をつくりますね?
中尾教授:信長に続いて、秀吉や家康も、京都の町や日蓮宗を支配しようとし、京都の自治権が奪い去られようとするなかで、本阿弥家は抵抗運動をします。京都の町衆たちは自分たちの自治権を取り戻したいという夢を持っていた。それは宗教的にいうならば「法華の世界を再現したい」ということです。だから、光悦は鷹ケ峰に本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住、「光悦村」という理想郷をつくったのです。
――「光悦村」は「芸術家村」だと思っていましたが……?
中尾教授:芸術家村であり、法華の世界でもあるんです。光悦村の中にはお寺が5つあり、そこでは昼夜交代で「南無妙法蓮華経」の題目〔だいもく〕*が唱えられていた。まさに「題目の巷〔ちまた〕」ですね。光悦の死後、屋敷は日蓮宗の寺「光悦寺」となりました。
――最後に、今回の展覧会の見どころを教えてください。
中尾教授:関東に生まれた法華の文化が、京都の進んだ文化と融合して生まれたのが、今回紹介されている「法華の名宝」だと思います。たとえば、関東では「お題目の曼荼羅」が、京都では「絵の曼荼羅」に変わりました。また、公家文化の京都で作られた日蓮の木像の目が、ぱっちり大きく見開いているのは、関東の武家文化の影響をうけたものだと思います。そういった視点で展覧会を見るのもおもしろいのではないでしょうか。
*日蓮宗で法華経の加護を祈るときに唱える「南無妙法蓮華経」
日蓮と法華の名宝─華ひらく京都町衆文化─
京都市東山区・京都国立博物館(東海道新幹線京都駅からバス)
〈問〉075(525)2473
http://www.kyohaku.go.jp/
※「今月の旅指南」は月刊「ひととき」に掲載されていますが、この記事はWEB限定です。