2022年8月14日(日)

秋山真之に学ぶ名参謀への道

2009年11月21日

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 「おまえたちを発憤させるために、ムリしてなまけているんだ」

 晩年には老子・荘子を読み、なまえを「八十九」(やそく)とあらため、頭をまるめて「天然坊」と号した。ひょうげた味わいのあるひとでした。といっても、久敬は明治維新のあと愛媛県学務課の役人として採用されています。明治11年に旧藩主が『松山叢談』という藩史を編纂しました。その編集者のなかに秋山久敬の名があるそうです。つまり、久敬には学問があった。

 あなたの父君がたよりなげにみえても、書棚に書籍がならんでいれば、しめたものです。名参謀になる環境にめぐまれている。

 母貞も松山藩士山口家の次女で、夫の久敬とは5つちがいでした。小柄で賢く働き者で、貧乏しながら五男一女を育てあげます。武家の娘ですから学問があって、息子たちに四書五経の素読を教えた。夫がほったらかしだからです。娘のすゑには炊事・西方・糸つむぎなど家事いっさいを仕込んだ。

 逸話がのこっています。真之が12歳のとき、8歳の子分の桜井真清(海軍少将)家の蔵書のなかに岩戸流の火薬調合法をみつけた。さっそく12人の子分を指揮して花火を打ち上げる。お巡りさんにねじ込まれて、母親の貞が怖い顔になった。

 「おまえのような腕白は生きていてもしょうがない。あしもこの短刀で死ぬけん、おまえもこれで胸を突いてお死に」

 さしものガキ大将も手をついてあやまった。真之が降参したのはこの母貞だけです。 まさにふるきよき時代の典型的な良妻賢母で、なかば厳父をかねました。

 あなたの母上もおそらく家事名人で、しかも読み書きを教えるのに熱心な教育ママだったでしょう。ずいぶん叱られたにちがいない。それでも名参謀になれないのは、あなたが怠けているからです。反省した方がいい。

 秋山真之の長兄の鹿太郎・則久は漢学をよくしましたが25歳のとき発病して家督をつげなかった。次兄の寛二郎・正矢は岡家に入り朝鮮電気の役員在職中に死亡します。三兄信三郎・好古は日本騎兵の父とうたわれ陸軍大将になった。四兄の善四郎・通一は西原家に入り実業家となったが若死にしています。末っ子がただひとりの女子ですゑです。

 ここのところは、みなさん不利でしょう。一人っ子の時代となってしまっている。 兄弟喧嘩ができないなら、友だちをふやすしかありません。

 秋山真之には好古というたよりになる兄とともに、正岡子規という学友がいました。真之は子規に負けない文才があった。

雪の日に北のまどあけシシすれば
あまりの寒さにチンコちぢまる

 これは八歳のときの三十一文字(みそひともじ)です。真之には画才もありました。10歳ころには凧の絵を大人よりうまく描いた。俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が「秋山の凧」を買ってくれと母にせがんだ記憶を書きとどめています。

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