こうした“本当の生活”の痕を、栂嶺は取材し、写真に収め続けた。「『風吹きすさぶボロ家で親子が肩寄せあって震えている』っていうのはイメージにすぎなくて、何も不自由ないといったら語弊があるけど、開拓者は食べるには困らない暮らしをしていた。むしろ、厳しい状況に置かれても自分の生活をつくっていく力がある、人間も捨てたもんじゃないって思いました。何でも自分たちでやるのが当たり前、できるのが当たり前。モノがなければつくればいい。つくるだけの知恵も力もあることを疑わない生活がそこにあったんです。すぐに国に何かしてくれと頼る今の人は、できるのに、単にやらないだけなんです」
実際、元開拓者たちにも、当時を明るく振り返る人は少なくなかったそうだ。しかし、取材から帰った栂嶺に電話がかかってきた。『さっきの話、やはり載せないでくれ。開拓者の出と知られたら、子どもが困るから』と。
戦後の食糧難や行き場ない農家の次男、三男の対策として、日本中で進められた国の開拓事業は、莫大な負債を抱えて見直しを余儀なくされた。60年代前半には政策が一転し、開拓者を離農させようと逆ネジが巻かれた。さらに知床は国立公園となり、観光客が自然に触れんと大挙して訪れるようになった。
「開拓は失敗」という見方が「国にとって失敗」から「開拓者にとって失敗」と拡大解釈され、「知床には“手つかず”の自然がある」とクローズアップされる中で、「開拓者は悲惨な生活だった」、「厳しい自然で逃げ出した」との先入観がつくられていったと、栂嶺は考えている。
元開拓者にとっては、人には語れない暗い過去になってしまったからこそ、今さら世に出すことに迷いがあったのだろう。誰が望んでいるわけでもないのに、触れてほしくないことを根掘り葉掘りすることに、栂嶺もめげそうになったと言う。真実を伝えなければとの説得が繰り広げられたのだろうが、そこまでする栂嶺の原動力はどこにあるのか。
誰かが声を上げないと
この人たちは
いなかったことになっちゃう
「実際はすごいことをしたのに、すごさを顧みられないばかりか、失敗だったとされたまま、この人たちは死んでしまって、開拓なんてなかったことになっちゃう。誰かが声を上げないと、この人たちはいなかったことになっちゃう。私には、それが嫌だったんです」
栂嶺は、医学部から大学院に進み、内科医をしながら解剖学の研究をしていた。その解剖学教室では、献体された遺体がムダにならないように喧々諤々の議論をし、ひとかけらもこぼさぬように解剖し、最後までその人一体分を保って棺に入れていた。それが、30歳の時に助手として赴任した大学では、ずさんな扱いで、棺に入れる時に誰の胴体だかわからなくなっている有りさまだった。それを教授に注進したが理解されず、耐えられなくなった栂嶺は大学を辞めた。純粋な医者として生きる選択肢を捨て、撮り続けてきた写真で身を立てようとした。
「血管の走り方、脂肪の厚み、関節の様子。体は、人がどう生きてきたかをあらわしています。だからご遺体は、その人の人生です。ご遺体がないがしろにされるのは、生きている人がないがしろにされるのと同じくらい嫌でした」