秋山教官から戦術を支える戦務の大切さをたたき込まれた明治海軍は完勝し、ヤマト魂を重んじ戦務を軽んじた昭和海軍は完敗した。秋山真之自身が日本海海戦のあと、述懐したそうです。
「自分がこの戦争でお国に奉公したのは、戦略・戦術よりもむしろ戦務であった」
戦後、海上自衛隊幹部学校で後輩の指導に当たった山梨勝之進海軍大将が伝えたことばです。 英雄は英雄を知る。
戦争はなぜ起こる?
後期の「海軍応用戦術」も「海国戦略」と平行して講義されました。まず、秋山真之の定義をみましょう。「戦略は戦術の上に立って、これを支配し、戦闘の時、戦闘の地、戦闘の兵力を定める」。つまり、戦争の天の時、地の利、人の和を定めるのが戦略です。
秋山教官の後期授業はわずか4週間でうち切られています。明治36年10月28日、秋山真之は常備艦隊参謀に補され、あわただしく海へもどっていきました。なぜか。
この年、ロシアは約束した第三次満洲撤兵を反古にして奉天城を占領した。小村外相とローゼン公使の5回にわたる会談も不調におわります。風雲すでに急を告げていた。天の時です。ロシアへの国交断絶通告は明治37年2月6日、その日正午、連合艦隊は佐世保から出撃しました。明治38年5月27と28の両日、日本海の対馬沖において、東郷平八郎提督ひきいるわが連合艦隊がロジェストウェンスキー提督ひきいるバルチック艦隊を迎え撃った。敵艦隊は地球を半周してやってきている。地の利です。
わが連合艦隊は秋山参謀が心血をそそいで策定した7段がまえの布陣で、猛練習で練り上げた丁字・乙字の応用戦術を駆使し、ついに「殆ド之ヲ撃滅スルコトヲ得」ました。当時、世界第一級の新鋭艦を買いそろえた「虎の目」をもつ海軍大臣山本権兵衛が51歳、「運の強い」司令長官東郷平八郎が56歳、「知謀湧クガ如キ」参謀秋山真之が38歳、この人の和がすばらしかった。
短い講義でしたが、秋山真之は『海国戦略』の要点はぬかりなくおさえています。第1章ではまず「戦争ノ本義」を論じました。
「国と国との間の平和的抗争が腕力に変じたるものを称して、戦争とは云うなり」
単純明快な定義です。クラウゼウイッツの『戦争論』にも有名な定義があります。
「戦争トハ、他ノ手段(外交)ニヨル国策ノ継続ニ他ナラナイ」
あなたは、どちらの定義が平成日本にとって有効と考えますか。この昭和の企業参謀は秋山定義のほうに軍配を上げます。なぜなら、クラウゼウイッツの定義には「抗争」が欠けている。戦争と外交はコインの裏表ですが、このコインの本質は「抗争」です。抗争がなければ戦争も外交も勝敗もありません。平成大不況の真の原因は、日本人の抗争心が希薄になっているからではないでしょうか。
抗争があるからといって、すぐ戦争になるわけではない。秋山教官はつぎに「戦争ノ種類ト起因」を明らかしました。