ドラフト9巡目。2004年のドラフト会議で横浜ベイスターズ(現DeNA)から指名を受けた松家は、揺れていた。国際協力銀行(JBIC)から内定をもらっており、業務内容にも興味をもっていた。
「常識で考えれば、就職。周りの意見も割れた。でも、信頼している人は全員、〝自分で決めろ〟だった。迷いの中で一つだけ確かな思いがあった。野球を選ばなかったら必ず後悔する」
プロに行く。祖母からは「東大まで行ってなぜ野球をやるのか」と不思議に思われたが、心は決まった。
「プロに行くからには、選手として勝負する。東大出身という肩書きでは絶対に見られたくなかった」
ドラフト会議での話題性や、将来の球団職員見込みでのドラフト指名という可能性もある。球団が本当に選手として評価しているのかを「様々な手を使って確認した」という。それだけ、松家にとっては重要なことだった。
松家は史上5人目の東大出身プロ野球選手となった。
最後までこだわったプロとしての終え方
「オマエ、プロ野球に何しに来たんや?」。プロ入り後、度重なる故障に悩まされ、全く結果を出せない松家は、チームのレギュラーからそう言い放たれたこともある。「東大出身という肩書きを毛嫌いしていた」と振り返るも、その肩書きはついて回り、自身もそれに苛(さいな)まれていた。
「実力で勝負したい。結果が欲しい。でも、結果が出ない」
結果に執着し、もがいていた松家を救ったのは、当時2軍監督だった田代富雄だった。
「田代さんは、結果のことは一切言ってこない。戦う姿勢、攻める姿勢があれば、どんどん試合に使ってくれた」
次第に本来の力を発揮し始めた。最速152キロのストレートと鋭く落ちるフォークを武器に、攻め続けた。その姿を見て、周囲は「そういえば松家は東大出身だったな」というように変わってきたのを当時チームメートだった私は記憶している。