「プロに行く勇気がないなら、勉強せえ。勉強から逃げるな」
甲子園を賭けて戦った夏の県大会は3回戦で敗れた。香川県随一の進学校である高松高校にいながら、プロからも注目される松家卓弘は、指定校推薦で慶應義塾大学に進もうと考えていた。そんな松家に、当時の副担任が檄(げき)を飛ばしたのだ。松家は東京大学一本に進路を絞った。
1982年生まれ。香川大学教育学部附属高松中学校では県大会で優勝。甲子園常連校の尽誠学園などから声がかかるも、県下随一の進学校である高松高校へ進学。高2秋、高3春に県大会で準優勝を果たし、プロから注目されるも、東京大学文科二類へ現役合格を果たす。2004年のドラフト9巡目指名で横浜ベイスターズに入団。国際協力銀行(JBIC)の内定を蹴って、横浜入りを決断。09年には1軍で登板するなど頭角を現し、北海道日本ハムファイターズへトレードで移籍。活躍を期待されてのトレードであったが、故障に泣き、12年に戦力外通告を受ける。15年から香川県立香川中央高校で地歴公民科の教員と野球部の部長を務める。
これまでの高校生活のほとんどを野球に費やしてきた松家にとって、それは無謀なチャレンジに思えた。模試の判定は最低評価のE判定。東大への挑戦が始まった。
「解けない問題を集め続け、ひたすら足りていないところを満たすことに集中した」
敗退翌日から一切ボールに触れることはなかったという。松家は見事、東京大学文科二類に現役で合格した。
大学卒業後はプロ野球選手になることを決めていた。しかし、現実は容赦なく夢の上に覆い被さった。
「ずっと、〝勝つ〟という思いをもって野球をしてきたし、それが普通だと思っていた。でも、東大野球部は必ずしも全員が勝つことを目的としている組織ではなかった」
東大野球部で、松家のような選手は異例だった。負けるのが当たり前の組織で、勝つ意思を前面に出す松家はチームの中で浮いた存在となった。募る不満は溢(あふ)れ、ついに1年生の松家は4年生のキャプテンに辞めることを告げに行った。
「辞めるのは勝手だが、今辞めたらただの負け犬だぞ」
文句ばかりで、行動も結果も伴っていない自分に気づかされた。それでも東大が勝つことは簡単ではなかった。
松家は4年生になった。「このチームは、勝ちに行くチームなのか、全員に野球をやらせるチームなのか、目的をはっきりさせよう」。六大学の他のチームでは起こるはずのない東大野球部の歴史を変える議論が行われた。
「東大生は納得しないと動かない。チーム全員での議論で俺たちは〝勝ちに行くチーム〟になることを決めた」
目的が決まった組織は、ぶれなくなった。勝てる選手が試合に出場し、その他のメンバーはサポートにまわった。勝つ確率の低い東大に進んでまで野球を続ける控えメンバーの、野球への思いは十分わかっていた。それでも、チームは勝つ方を選んだ。
「確率が高いとか低いとか、関係なかった。〝絶対勝つんや〟その思いだけで投げ続けた」
この年、松家は3勝を挙げ、東大は年間で5勝した。