2024年12月7日(土)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年6月10日

石井琢朗 (Takuro Ishii)
  1970年生まれ。足利工業高校では1年夏から背番号1をつけ、2年夏には甲子園に出場。89年横浜大洋ホエールズにドラフト外で入団 。高卒1年目から開幕一軍入りし、10月には先発して初勝利をあげる。92年野手に転向、登録名を石井琢朗に変更 (本名は石井忠徳)。転向1年目からレギュラーを獲得し、翌年にはゴールデングラブ賞、盗塁王に輝く 。98年にはマシンガン打線の1番打者として日本一に貢献。最多安打と盗塁王にも輝いた。2006年には2000本安打を達成。
  08年のシーズン終了後に球団から引退勧告を受けたがこれを拒否して、広島東洋カープへ入団。4シーズンプレーし、12年に引退。以来、広島のコーチを務める。通算2432安打は歴代11位。 (写真・NAONORI KOHIRA)

 「1番、ショート、石井琢朗」。満員の横浜スタジアムに地鳴りのような歓声が響く。歓声はやがて3万人の大合唱に変わった。

 「駆け抜ける スタジアム 君の勇姿 明日の星を掴めよ 石井その手で」

 鳴り響く応援歌。横浜が生んだスーパースターの野球人生を締めくくる舞台は、横浜スタジアム。しかし、着ているユニフォームは赤色だった。石井は、広島東洋カープの選手として引退した。

 「本当はマツダスタジアムの引退試合が最後の試合だった。でも、雨天順延の関係で、最終戦が横浜スタジアムになった。これも、何かの運命かもね」

 1989年、栃木県立足利工業高校から、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。ポジションは投手だった。

 「ドラフト外で入ったし、とにかくついて行くことに必死だった。気がついたら開幕一軍だった」

 10月には先発して勝利投手になった。2年目には「桑田二世」とまで呼ばれ、投手としての将来を疑問視するものは誰もいなかった。しかし、石井には最初からやりたいことがあった。

 「2年目のキャンプから、江尻亮ヘッドコーチに『野手になりたい』とずっとアピールしていた」

 3年目のオフ。石井の思いが通じ、念願の野手転向を果たす。

 「周囲の反対を押し切って野手になった。干されて終わるかもしれないが、やりたいことを我慢して野球人生を終えるよりはずっといい」

 転向後の石井の練習量は伝説として語られている。当時の内野守備コーチだった岩井隆之氏には、「オマエのせいで腰を痛めた」と言わしめ、横浜で長年コーチを務めた三浦正行氏には、「オレからギブアップしたのは琢朗が最初で最後」と言わしめた。それでも、石井には、努力という概念が微塵(みじん)もない。

 「練習できるのがうれしくてさ。実は、ピッチャーのときも隠れてバッティング練習してたんだよね。それが、堂々と打ったり守ったりできる。プロに入って一番うれしかった」

 野手転向2年目には盗塁王とゴールデングラブ賞を受賞。また、2007年の途中まで、339試合連続フルイニング出場を果たしたが、それが、後に野球人生を変えることとなる。


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