06年5月、2000本安打を達成したが、それからまもなくして1塁ベースを駆け抜けた際に右ひざを故障した。半月板損傷だった。
「正直、歩くこともできなかった」
石井は揺れていた。連続フルイニング出場は、石井を動かす大きなモチベーション。だが、走れない人間が試合に出ることは、チームにとってマイナスであることも十分わかっている。石井は悔し涙を流しながら、当時の牛島和彦監督に告げた。
「出られません」
連続フルイニング出場は遂に途切れたかのように思えたが、スターティングメンバーが発表された後、試合は雨天順延となった。
「神様が、まだ続けろって言ってるのかなって思ってさ」
翌日、横浜ベイスターズのショートは、いつも通り石井琢朗が守っていた。結局この年も最後まで試合に出続け、フルイニング出場は継続された。しかし、連続出場へのこだわりが、球団との間に軋轢を生んだ。
「万全じゃない人間が試合に出ることはチームにとってマイナスだとわかっていた。だから、そう思わせないだけの結果を残すために必死だった。そして、俺にも譲れないものがあった」
翌年、開幕早々に石井の連続フルイニング出場は止まった。同時に、石井を長年第一線で動かし続けてきた何かが揺らぎ出した。
「98年の日本一のきっかけをつくった大矢明彦さんがこの年から監督になって、なんとしても男にしたかった。今ならわかる。大矢さんにしか、俺を止められないことを。でも、当時の俺には受け止められなかった。いろんな感情が渦巻いて、葛藤の日々だった」
大矢監督を男にしたい。しかし、戦力として期待されていないのではないか。まだまだ動ける。しかし、膝は思うように動かない。石井はひたすらもがいていた。
「この時の葛藤は、そのまま態度や言動に表れていたと思う。でも、当時の俺にはそれを受け入れるだけの器量がなかった」
「日本一」の功労者に訪れた悲劇の通告
9月の名古屋遠征。練習前、石井は監督の部屋に招かれた。
「今年で辞めるなら、それなりの試合を準備する」
――引退勧告だった。
「球団を出ます」。石井は即答した。
「まだやれる、やれないじゃない。〝やりたい〟」
後日、横浜中華街に招かれ、球団幹部からも引退を勧められた。お互いの主張は平行線を辿(たど)り、石井の意思が変わることはなかった。
38年ぶりの日本一の原動力となった横浜の看板選手・石井琢朗は、横浜を自由契約となった。たとえ、一時代を築いた人間であっても戦力外通告は訪れる。国内外すべてのチームでプレーする意思を表明し、11月、広島東洋カープへの移籍が決まった。
20年慣れ親しんだチーム、立場、環境をすべて手放し、一からスタートを切った。