浜野 原さんが初めて黒澤監督に会った経緯というのが面白い。映画の世界では黒澤明、そしてマンガとアニメの世界でだったら、手塚治虫でしょう、天空高くそびえる峰という意味では。原さんは、確かこの巨匠2人に、合作させられないかと思われたんでしたね。
原 シロウトの怖さ、でね。あれなどは。戦争終わったとき、わたしは14でした。みなそうだったと思うが、映画抜きでは青春時代を語れない、そういう世代でね。独立プロの現場を経て、27になる年でしたが昭和33(1958)年、「ヘラルド」という、洋画配給会社に入るんです。洋画の配給としちゃ後発の会社でした。
でも後発だから物怖じしないところがあってね、手塚治虫さんに劇場用のアニメをつくってもらおうということになりました。「大人の鑑賞に堪える」初めてのアニメを、という意気込みで、69年のことです。
手塚アニメの大入り満員が発端
原 できたのが『千夜一夜物語』で、それは大盛況を取りました。大きな映画館が立ち見客で両脇、後ろの通路ともギュウギュウ詰め、扉が閉まりきらないから外の光が漏れて入るくらいというくらいの(1)。
それだけ当たりを取ったということと、かたっぽうでは、黒澤さんがしきりに「平家物語」をやりたいと言ってて、でも日本の技術やスケールじゃできないと、ぼやいてらっしゃるという話を聞いた。
そこで思ったのは、実写で無理なものも、アニメでだったらできるだろう、なんてね。これが勉強不足だったんだ。
ただもうひとつは、その話にかこつけて、まだお会いしたことのなかった黒澤監督に会えるやと思って。なんといっても戦時中から戦後にかけて、『姿三四郎』(43年)や『素晴らしき日曜日』(47年)を見て育ったわけですからね。黒澤明シナリオ・演出、手塚治虫撮影・監督というのは面白いんじゃないか、と。
浜野 監督には会われた?
(1)今と違って総入替制でなく、映画館は切符を客席定員に構わず売った。客は上映中でも入って立ち見し、終わると空いた席に座って最初から見直すという、当時はそんな鑑賞スタイル
黒澤監督現れ、「そりゃあ素敵だよ」
原 会ったんです。赤坂プリンスホテルの旧館。黒澤プロの事務所がこう、階段上がって右んとこにありましてね。そこで、先方のプロデューサーをしていた松江陽一さんに話してたら、黒澤監督がひょっこり現れた。初対面です、それが。
「平家物語ができたら、そりゃあ素敵だよ」とかなんとか、監督はおっしゃいましたかな。
よし黒澤さんにも興味をもっていただけたのだからと、手塚さんのところへ勇んで話をしにいったら、「そんな、鎧(よろい)の直垂(ひたたれ)ひとつひとつ手で描くようなことできないよー、きみー」と怒られるような始末で。幻に終わるわけです、この企画は。