宮本三郎は石川県松崎(現小松市松崎町)の農家に生れた。小さいころから絵がうまかったが、財産はその才能だけで、あとはほとんど独学である。中学校卒業後、関西に出たあと上京し、川端画学校で学ぶが、途中で関東大震災に見舞われ、また京都に移ったりしている。団体の公募展に出品するころから、自分で安井曾太郎〔そうたろう〕を師と思い、友人とアトリエを訪ね、作品を見てもらったりもしている。安井曾太郎はその後宮本三郎を評して「何でも描き得る人だ。少し達者すぎるかも知れぬ。そのため画品を少し下げている様に見える。絵に或る落付きができれば、その欠点もなくなるだろうと思う」と記している。
その安井に傾倒しているころ描いた「婦女三容」などは、たしかに描き方が安井曾太郎にそっくりだ。出品した二科展会場に安井曾太郎が来たとき、その宮本三郎の絵の前でしばらくじっと立って見ていたということを、同世代の東郷青児が書き残している。その安井の心理を想像するのは面白い。じっと見たあと安井は「明るいね」と呟き、翌年から安井自身の絵の色調がぐんと明るくなったそうだ。安井も留学時代の素描など大変うまい人だが、筆が達者というのとは少し違う。自分が筆達者の方に走りそうなところを自覚して、意識的にそこから逃れようと苦労した時期がある。でも筆が達者ということでは宮本三郎の方が、その誘惑に近い位置にいるように思う。
宮本三郎の本領発揮は裸婦だ。肌の質感や、量感というものがあっという間に描けてしまっている感じだ。ふつうはなかなか描けずに苦労するのだろうが、ほとんど自分の意思に先回りして描けてしまい、その先どうするのかで苦労しているような気がする。ぼくの高校のころ美術科の先輩で、石膏デッサンのうまい人がいた。うまいだけでなく早い。あっという間にボリューム感が描けてしまう。でも先生は何故か褒めずに無視していた。そのときの感じを思い出す。
さて戦後の美術界には、抽象の波が押し寄せる。別の面では社会意識の高まりとともに、労働者や群像を描いた絵が、時代のトレンドとしてあらわれる。戦前に描写的な絵を確立していた画家たちは、この波をどう受けとめればいいのかで悩んだようだ。宮本三郎もこの時期に群像の絵をいくつか描いている。これは戦争画と同じく描写力の転用で同調できるが、抽象の波というのは絵の根本からの問題だから、簡単には対応できない。宮本三郎もそれを動物や水をテーマに努力した跡がうかがえる。同時期の小磯良平の画業の中にもそれが見られて興味深い。宮本三郎は昭和27(1952)年に2度目のヨーロッパ旅行をする。これには「抽象の波を確認したい」という思いもあったようだ。帰国後「具象の道を再確認した」というコメントを残している。この辺り、日本の美術界全体の空気の流れが見えて面白い。描写力で勝負する画家ほど悩んだわけだ。