秀忠は3万8000人という大軍を率いていたが、これだけの人数が宇都宮を発って中山道を進み、上田城攻めをあきらめるまでがおよそ半月。その間、兵たちに1日6合の米と副食物を支給する。現代の金額にすると大体1億5000万円ぐらいの経費がかかるのだが、それさえ事前に準備したりスピーディーに前線に送り届けることができなかったのだ。
グズグズする家康に激怒
この醜態に、秀忠の補佐役として派遣されていた家康の腹心・本多正信があわてて江戸に引き返し手配する羽目に陥ったという(『岩淵夜話』)。これが本当なら、秀忠軍が真田昌幸の上田城攻めで散々に振り回され数日間釘付けにされて結局決戦に遅参したのは、智将・昌幸の手柄というよりは東軍自体の運営のまずさのためだったということになる。
家康は合戦前、江戸に居座ってなかなか西へ向かわなかったが、これは敵味方の大名たちに手紙攻勢をかけるためだったという理由の他に補給体制の目処をつけるのに手間取ったというのも大きかったのではないか。
家康のあまりの遅さに、120億円を提供した正則は「我らを見捨てるのか」と激怒している。この合戦に出る前周囲に「負けて死ぬか、勝って大封を得るかだ」と宣言したと伝わる正則は、自分の城どころか豊臣家の米30万石まで張った捨て身の博打を張ったのだから、怒るのも当然だろう。結果的に正則の賭けは吉と出るわけだが、のち大坂冬の陣の際に彼は豊臣家が大坂の福島家の蔵の米を接収するのを黙認した。その量、8万石。実はこの時の米価は関ヶ原合戦の頃とくらべて2倍以上に高騰している。それでも足りないとはいえ、正則は勝手に博打の種に使った30万石を返済するつもりだったのかも知れない。
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