2024年4月20日(土)

東大教授 浜野保樹のメディア対談録

2010年2月23日

 ひとつのタブロー(画面)の中の絵。そしてそのシークエンス(流れ)。音楽の入れ方。役者の芝居のつけ方…。そういうものが映画のもってるアンサンブルだとすると、うーん、黒澤さんのあの組み立ては、やっぱり天性のものなんじゃないかな。

1984年「乱」の打ち合わせの様子。黒澤監督(左)と原正人さん(右) (原正人氏提供)

 黒澤さんも、日本が生んだ、というべきか、20世紀映画芸術が生んだ、というべきか、ひとりの天才だったんだと思います。だから、これはなかなか真似はできないんで…。できることってのは、こういう人と同時代を生きた喜びを噛み締める。それくらいじゃないかなあ。

 僕は『乱』で経済的に苦しんだりいろいろ苦労したけれど、それもこれも、みんな含めて、人生いっぺんしかないんだから、いい勉強させていただいたっていうかな、いい時間を共有させていただいた。黒澤さんとの関係は、それに尽きますね。

心込めた何かは必ず伝わる

浜野 リスボン万博のとき、忘れられない経験をしました。あの万博は1998年。名古屋(愛知)で2005年に開くことがもう決まっていました。僕は愛知万博を手伝っていた関係で、リスボンの視察に行ったんです。

 ポルトガル人の男性が通訳についてくれたら、この人がやたらと上手な日本語をしゃべるじゃないですか。ポルトガルにも、こんな上手な人が1人や2人、居て不思議はないかと思ったものの、これでそう商売になるはずもないのに一体なんで、とね。

 そう思ったから、どこで勉強したの、と聞きました。すると答えが「黒澤明がいちばん好きで、自分の人生で最も尊敬する人物でもあって、黒澤作品を原語で味わいたいと思ったから日本語を勉強した」ということでした。実はその頃僕はもう黒澤財団の理事をやっていましたからそのことを言うと、「えぇー」って。

 その翌日、「黒澤明が死んだ」っていう、新聞の特集号を持って見せてくれたんですよ。

司会 ポルトガルの新聞なんですか?

浜野 そう。それが、一面から何面も続いていました。いやこれには驚きました。こんな遠くの国で、黒澤が死んで新聞9ページ。

 全く知らない人たちが、黒澤明についてこんなに好いててくれている。日本語を習得する人まで出ているということは、人間の人生すら変えている。凄いことだと心から思いましたねえ、あの時は。

司会 黒澤という監督が、「映画になる瞬間」を粘って粘って待った。そうしてできた映画を見た人が、地球の反対側で日本語を身につけたいと切実に思った。いい話ですねえ。心を込めた何かが必ず伝播する、という話のように思えます。


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