黒澤明作品がいまだに人の心を打つ訳は、結局何か。
「手塩にかけて」作っていたからだと原さんは言う。
それが国境や言語の壁を越える力になった。
浜野さんがポルトガルで得た経験は、そのよい例証だ。
(司会・構成=谷口智彦・明治大学国際日本学部客員教授)
浜野 スティーブン・スピルバーグ監督が「クロサワは映画のシェークスピアだ」と言ったのは、絵だけで語らせる力の強さを指したものでした。
この言い方は実に正しいんで、コトバじゃなく絵だけで表現するノウハウの固まり。それが黒澤監督ですよ。しかし、真似しようとしても、できるもんじゃない、絵だけで何かを語ってしまう力っていうのはね。
最近、(監修している『大系 黒澤明』の確認作業のために)『天国と地獄』(1963年)を見始めたら、ワンシーンを見るだけでいいのに、結局最後まで見てしまいました。推理ものだから筋はおぼえていますし、犯人はわかっているし、場面場面に至るまで、全部覚えている。それなのに、見始めるとまた見入ってしまう。やはり絵の迫力なんですよ。ここ、どうやって撮ったんだろう、とかね、やっぱり思う。
これは『生きる』(52年)を撮っていたときから監督は意識したそうですが、あれは行政批判の映画だから、場所を特定すると差し障りが出る。それ以来、監督の映画世界は「どこでもないどこか。いつでもないいつか」です。監督が敬愛していた山本周五郎も、「時限もなく地理的限定もない」と同じようなことを『季節のない街』で言っています。
(C) 1985 角川映画
時代設定にしても、リアリティはちゃんとある。でも何年何月と言えないようになってる。『用心棒』(61年)だってそうでしょう。と、いうことは、監督がつくる世界には固有性がない。普遍性があるんです。
もしも「信長」という映画をつくると、信長を知らない人には意味がわからない。『乱』(85年)が典型ですが、武将ではあっても「誰か」が特定されていない。そのつくり方が、劇に普遍性を与えるんだと思うんです。そこが、国境であれ、時代であれ、やすやすと超越してしまう力になってる。
できるのは、同時代を生きた喜びをかみしめること
原 一言で言いますと「プロフェッショナルとしての厚み」ですかね。