2023年1月30日(月)

古都を感じる 奈良コレクション

2010年3月5日

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西山 厚 (にしやま・あつし)

帝塚山大学教授、前奈良国立博物館学芸部長

帝塚山大学文学部文化創造学科教授。前奈良国立博物館学芸部長。徳島県鳴門市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館では「女性と仏教」など数々の特別展を企画。主な著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)など。日本の歴史・思想・文学・美術を総合的に見つめ、書き、生きた言葉で語る活動を続けている。

 東大寺には、補陀落山から飛来する十一面観音の画像(鎌倉時代制作)も伝わっているが、頭上面が四段かさねなので、これも小観音を描いているとみてよいだろう。しかし、時代が下がってから描かれた二月堂曼荼羅(室町時代制作)では、雲に乗って飛来する観音の頭上面は三段重ねになっており、秘仏化された結果、その特徴が忘れられたのではないかと思われる。

 3月5日と12日に読み上げられる過去帳(すでにこの世を去った二月堂ゆかりの人々の名簿)に「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」の名がみえる。これは鎌倉時代の初めに東大寺を復興した重源(ちょうげん)のことで、その2行前に「観音御厨子造聖人法阿弥陀仏」の名がある。

 この法阿弥陀仏は重源の同法で、東大寺南大門の金剛力士像(吽形)の体内に納められていた経巻にも重源と一緒に名がみえる。その法阿弥陀仏が造ったという「観音御厨子」は小観音の厨子のこと。平家による焼き討ちの際に、二月堂脇の湯屋や閼伽井屋(あかいや)は焼失、二月堂の登廊(のぼりろう)にも火が燃え移ったので、厨子を壊して小観音を二月堂から救い出したことが練行衆の日記にみえている。法阿弥陀仏はその厨子を再造したわけだが、小観音が秘仏になったのは平家の焼き討ちを契機としたこの時期からではないだろうか。

 二月堂は、実は一度だけ焼けたことがある。寛文7年(1667)2月、「お水取り」の最中だった。早朝、練行衆が参籠所で休んでいると、二月堂の上に煙が立ち昇っているとの知らせが入る。実賢という僧が急いで二月堂に入ると、すでに内陣は火の海。厨子を押し破って小観音を取り出した実賢は、自分の袈裟で小観音を包んで堂外へ走り出た。

 やがて二月堂は全焼。大観音を救い出すことはできなかった。しかし、焼け跡へ行った人々は、大観音が痛ましい姿で焼け跡に立っているのをみた。当時の記録によれば、人々は大観音を拝し、さらに恐れたという。分かる気がする。

 大観音は今もその時の姿で二月堂内陣に立っている。悔過をし、すべての衆生の幸せを祈る「お水取り」。焼けただれ、誰よりも傷ついている大観音の幸せも祈りたい……。

                                             *

二月堂の舞台を見上げ、大きな松明の炎に歓声をあげるのもいい。確かにそれは美しい。しかし、「お水取り」を「不退の行法」たらしめた、今は亡き人々に思いを馳せる時、その美しさはさらに胸に迫ることだろう。

 *次回更新予定日は、3月19日(金)です。

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