「お水取り」は、奈良時代に東大寺僧の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が創始して以来、現在に至るまで、さまざまな危機を乗り越え、「不退の行法」として、一度の中断もなく続けられている。おわびして、おわびして、おわびして、みんなの幸せを祈る行事を、万難を排してやり続けている。
今年は1259回目。1259年続いてきたということは、1259年続けてきた人がいるということでもある。
「お水取り」の長い歴史のなかで、存続の最大の危機は、治承5年(1181)に訪れた。
前年の12月28日、東大寺は平家に焼き討ちされて壊滅的な打撃を被った。山の上にある二月堂は辛うじて助かったが、大仏殿は焼け落ち、大仏も上半身を失った。講堂や僧房など東大寺伽藍の大部分が焼失し、数々の法会はこのとき断絶、「お水取り」も実施しないことになった。しかし、練行衆の有志が反対した。
東大寺の執行部は言った。大仏は焼失、仏事は断絶、荘園は顛倒、寺は無きが如し。なぜ「お水取り」だけやるのか。寺が復興した時にまた始めればよいではないか。
練行衆は言った。哀れなるかな、不退の行法、断絶の期来たる。後年に修してなんの甲斐があろうか。後悔が残るだけだ。
結局、両者の溝は埋まることなく、「お水取り」の中止が決まった。
しかし、練行衆はあきらめない。ならば今年は寺とは関わりなく各自が相励もう。観音菩薩よ、納受したまへ。実忠和尚よ、加護したまへ。
「同心之輩」は11人で、リーダーの寛秀はすでに72歳になっていた。本行の初日(2月1日)になって呼びかけに応じて新たに4人が加わり、15人(寛秀、義慶、尋勝、明慶、浄秀、顕範、心均、顕珎、顕祐、重喜、景恵、義深、仁教、仁寛、仁弁)の合力でこの年の「お水取り」が始まった。二月堂のすぐ下にある湯屋は焼き討ちで失われており、彼らは氷を割って冷たい川の水を浴び、身を清めて二月堂に参籠した。
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二月堂の内陣には大小二体の十一面観音、大観音(おおがんのん)と小観音(こがんのん)が安置されており、前半の7日間は大観音、後半の7日間は小観音が悔過の本尊になる。この2体はいずれも秘仏で、誰も拝することができない。
しかし、昔は拝することができたようで、平安時代に描かれ、鎌倉時代にそれを写した『類秘抄』という本には小観音の姿が描かれている。よくみると小観音の頭上の小さな面は四段かさねになっており、このように垂直に高くそびえ立つ頭上面をもつ十一面観音像は、小観音以外には知られていない。
東大寺に伝わる掛幅装の東大寺縁起(鎌倉時代制作)には、実忠和尚と小観音が難波津で出会う場面が描かれている。小さな画像だが、よく見ると小観音の頭上面は四段かさねになっており、これが小観音の特徴と認識されていたようである。