2024年4月25日(木)

「ひととき」特別企画

2016年12月9日

 1911年(明治44)12月13日。この日、漱石は日記に書いた。「こたつであい子とふざけて遊ぶ。御八つの焼芋を食ふ。」あい子(愛子)は四女で6歳、漱石は愛子とにらめっこでもしたのだろうか。ともあれ、その時に食べた焼き芋は格別うまかったのではないか。

 焼き芋といえば、ロンドンに留学していた漱石あての正岡子規の手紙(1901年11月)を思い出す。身動きもままならない重病人になっていた子規は、「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書き起こし、近況を記した後に「倫敦(ロンドン)ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ」と書いた。子規の近況にしんみりしていた漱石は、この子規の問いかけに思わず頬がゆるんだに違いない。「石焼き芋はロンドンにはないよ、正岡君」と遠い日本の子規に向かってつぶやいたかも。

  絵所(えどころ)を栗焼く人に尋ねけり
  栗を焼く伊太利(イタリー)人や道の傍

 焼き芋はともかく、漱石はロンドンで右のような焼き栗の俳句を作っている。絵所はギャラリーだ。イタリア人の焼く栗を買い、食べながらギャラリーを訪ねたのだろうか。

 漱石が甘党だったことは、『吾輩は猫である』の苦沙弥(くしゃみ)先生がジャムや砂糖をなめていることで知られる。苦沙弥先生は漱石自身をモデルにしている。

 旅のエッセー『満韓ところどころ』(1909年)によると、大学予備門の受験勉強をしていた16歳から17歳のころ、ほぼ毎晩、汁粉を食べたという。彼は寺の2階に下宿して受験勉強に励んだが、屋台の汁粉屋が寺の門前に来てばたばた団扇を鳴らした。その団扇の音を聞くと「どうしても汁粉を食わずにはいられなかった」と漱石は言う。ちなみに、受験はうまく行ったが、入学した途端に盲腸炎になった。「汁粉屋の親父のために盲腸炎にされた」とは漱石の言い分だ。

 もういちどロンドンに戻るが、日記などから見て、ロンドンの漱石が食べたおやつの類は、プリン、ビスケットなど。紅茶と菓子のセットをしばしば摂(と)っているので、いわゆる洋菓子類にもなじんでいただろう。

 36歳で日本に戻った漱石は、40歳にしてプロの小説家になるが、小説家・漱石は胃潰瘍に悩んでいる。そのせいか、食べることにあまり関心を示さず、自分で菓子を買うこともほとんどなかった。それに、彼は夕食を家族とは別に1人で孤独に食べた。家族団欒のにぎわいがなかったのだ。それだけに、先に紹介した愛子とのひとときは、至福のおやつの時間だった、と思われる。

 ロンドンでも食べたのだろうが、漱石はアイスクリームが好きだった。実は漱石の家には親戚からもらったアイスクリーム製造器があった。筆子、恒子、栄子、愛子、純一などという子どもたちと、漱石は上半身裸になってアイスクリーム作りをした。それもまた彼の至福のひとときだった。

 *参考文献/『漱石全集』(岩波書店)、夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)、河内一郎『漱石、ジャムを舐める』(新潮文庫)


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