2024年4月17日(水)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2017年1月19日

渡辺俊介(Syunsuke Watanabe)
1976年生まれ。國學院大學栃木高等学校、國學院大學、新日本製鐵君津を経て、2000年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズに指名を受け入団。アマチュア時代はプロアマ混成チームであったシドニー五輪の代表にも選出された。05年には15勝を挙げるなど、球界を代表する投手として活躍。06年、09年のWBC日本代表にも選出され、「世界一」に貢献。13年オフに自由契約を申し出て、メジャーリーグに挑戦。14、15年は米独立リーグや、ベネズエラのウィンターリーグで活躍し、フェイスブックを利用して、イタリア、台湾などの球団からオファーがくるも、希望していたメジャーからのオファーはなく、15年12月、新日鐵住金かずさマジックにコーチ兼選手として入団。
(写真・NAONORI KOHIRA)

 「このままやってても、レギュラーにはなれない」

 補欠投手だった当時中学2年生の渡辺俊介に、父親がアンダースローへの転向を提案した。当時から体が柔らかかったことも手伝い、アンダースロー投手としての道を歩み始めた。

 「浮き上がるストレートを投げたい」

 前例があまりなく、フォームを教えてくれる人もいない。答えはボールに聞くしかない中では、意図せずとも自らと対話する下地はつくられていった。國學院大學時代、「たまたま調子が良かった」という試合に訪れた應武篤良監督の目に留まり、新日鐵君津に進む。社会人野球でチャンスを得た渡辺は徐々に頭角を現し、2年目の2000年、ドラフト4位指名を受け、千葉ロッテマリーンズに入団した。

 「どんな手を使ってでも勝つ。あの1勝は、たしかにターニングポイントになったと思う」

 あの1勝。3年目のシーズンとなった03年。前年未勝利に終わり、この年も登板した最初の試合で打ち込まれた。もうチャンスは来ないかもしれない。そんなときに、バッテリーコーチの袴田英利氏、井上祐二氏が当時の山本功児監督に頭を下げ、チャンスを求めてくれた。「もう1試合だけ、チャンスを与えてやってほしい」。

 当時、スピードを出すことにこだわりがあった。「下投げだからと言って、草野球のオジさんみたいにかわす投球はしないと決めていた」。

 しかし、ストレートの球速表示が120キロ台を示す度に、球場からは失笑が漏れた。「ストレートが遅いことが、悔しいし、恥ずかしかった」が、もう理想は言っていられなかった。

 「遅いボールを打てないバッターの方が、よっぽど恥ずかしいはずだ」

 どうすれば、遅いボールが速く見えるか。どうすれば、アンダースローでこの世界で生き残っていけるか。

 「遅いボールを磨く。〝曲がらない〟変化球を投げる。バッターにとって打ちづらいことだけを考え抜いた」

 試行錯誤の野球人生が幕を開けた。


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