「このままやってても、レギュラーにはなれない」
補欠投手だった当時中学2年生の渡辺俊介に、父親がアンダースローへの転向を提案した。当時から体が柔らかかったことも手伝い、アンダースロー投手としての道を歩み始めた。
「浮き上がるストレートを投げたい」
前例があまりなく、フォームを教えてくれる人もいない。答えはボールに聞くしかない中では、意図せずとも自らと対話する下地はつくられていった。國學院大學時代、「たまたま調子が良かった」という試合に訪れた應武篤良監督の目に留まり、新日鐵君津に進む。社会人野球でチャンスを得た渡辺は徐々に頭角を現し、2年目の2000年、ドラフト4位指名を受け、千葉ロッテマリーンズに入団した。
「どんな手を使ってでも勝つ。あの1勝は、たしかにターニングポイントになったと思う」
あの1勝。3年目のシーズンとなった03年。前年未勝利に終わり、この年も登板した最初の試合で打ち込まれた。もうチャンスは来ないかもしれない。そんなときに、バッテリーコーチの袴田英利氏、井上祐二氏が当時の山本功児監督に頭を下げ、チャンスを求めてくれた。「もう1試合だけ、チャンスを与えてやってほしい」。
当時、スピードを出すことにこだわりがあった。「下投げだからと言って、草野球のオジさんみたいにかわす投球はしないと決めていた」。
しかし、ストレートの球速表示が120キロ台を示す度に、球場からは失笑が漏れた。「ストレートが遅いことが、悔しいし、恥ずかしかった」が、もう理想は言っていられなかった。
「遅いボールを打てないバッターの方が、よっぽど恥ずかしいはずだ」
どうすれば、遅いボールが速く見えるか。どうすれば、アンダースローでこの世界で生き残っていけるか。
「遅いボールを磨く。〝曲がらない〟変化球を投げる。バッターにとって打ちづらいことだけを考え抜いた」
試行錯誤の野球人生が幕を開けた。