「オマエ、そんなにデカくてサラリーマンになれるか? オマエはプロになれ」
門倉健は、東北福祉大学に入学するなり、当時の伊藤義博監督(故人)に告げられた。
「野球部に入部して、最初の会話だよ? そりゃ、衝撃だよね」
身長193センチの門倉が、そう言って少し肩をすくめる。聖望学園からプロ野球を目指し進学した同大学。200人を超える部員の中で競争を勝ち抜き、3年時にはエースとなった。MAX150キロのストレートを武器に、4年時には大学選手権準優勝。1995年、中日ドラゴンズからドラフト2位指名を受けた。
「4年間とにかく必死だった。プロがどうこう考える暇もなく、毎日9時から21時まで練習してさ。だから、特別な感情はなかったよ」
門倉はプロ野球の門を叩いた。
中村、立浪がきっかけ 最大の武器誕生秘話
「1試合、何点取られるんだろう」
大学では無敵だったストレートも、プロでは「ただ速いだけ」のボールで、簡単に弾き返された。4月、結果の出ない門倉は、当時のエースだった今中慎二の投球をブルペンで目撃した。
「ミットに入る勢い、変化球の質。全てのレベルが違う。これがプロの球だ」
以降、投球「術」を磨き徐々に頭角を現した。
オールスター明けの7月25日。1軍に合流した門倉は、当時のレギュラーキャッチャーだった中村武志とブルペンに入った。そこへ、目を慣らすために打席に入ったのは球界を代表する打者の立浪和義。緊張感たっぷりのブルペンで、中村が一言放った。
「オマエ、身長デカいから、フォーク投げれるだろ」
試しに投げたところ、2人からは思いもよらぬ反応が返ってきた。
「これは使えるぞ!」
翌日、初登板のマウンドでフォークを駆使し、古田敦也、池山隆寛から三振を奪った。ここで自信を得た門倉は、後半戦だけで7勝を挙げる。2年目、3年目と連続で10勝を挙げ、迎えた4年目。春のキャンプでのオーバーワークがたたり、シーズンに出遅れ、結局この年は2勝に終わった。チームが秋季キャンプに向かう前日、球団事務所に呼び出された。