2024年11月22日(金)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年12月16日

 「トレードで近鉄に行ってくれ」

 小池秀郎、佐野慈紀らとの3対3トレードにより、近鉄バファローズへ移籍することとなる。

 「中日から必要とされていないんだって、前向きにはなれなかったよね。でも、近鉄からは必要とされている。そう考えたら、前向きに移籍できた」

 近鉄での4年間には、開幕投手を務めるなど21勝を挙げ、プロ8年目の2003年オフに、横浜ベイスターズへ移籍する。

 「同級生の三浦大輔や、大学の先輩の〝大魔神〟佐々木さん、憧れていた牛島監督、チームや環境は最高だった」

 移籍2年目には11勝をあげ、最多奪三振のタイトルも獲得。3年目の06年も10勝をあげた。同年オフ、FA権を行使し巨人へと移籍する。

 「横浜は大好きだった。ただ、『オマエが必要だ』と言ってもらいたかった。だから、必要としてくれるところでプレーしようと思った」

 巨人へ移籍後、調子は決して悪くなかったものの思ったようなパフォーマンスが発揮できずにいた。巨人での2年間はわずか1勝に終わった。08年オフ、球団からは減額制限を超える年俸を提示されたが、「ベテランの力が必要」と、残留を要請された。

 「給料が下がることは、全く問題じゃなかった。結果を出していないから、当然のこと。でも、自分がもっと輝ける場所を求めた」

 門倉はアメリカに渡った。メジャー志向は全くなかったが、度重なる移籍が、視野を広げた。トライアウトに合格し、シカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶ。春季キャンプでは招待選手に選ばれ、オープン戦も好投。その後マイナーに降格したが、調子は上々だった。マイナーのチームでは、「ケン」と皆から親しまれ、いつも周りには人だかりがあった。そんな開幕前日、門倉は戦力外通告を受けた。

 「アメリカでは開幕間近になると、人数の調整が行われる。年齢も年齢だったし、外国人だったし、カットしやすかったんだと思う」

 開幕を翌日に控えたチームに衝撃が走った。アメリカでは、翌日にチームメイトがいなくなることは日常茶飯事である。しかし、門倉の場合は違った。チームメイト全体の前で発表があり、若い選手たちは皆号泣した。

 「みんなの反応は、正直ビックリした。つられて、俺も号泣してしまったよ」

 マイナーに降格してわずか2週間。その間に作られた人間関係が、門倉の人間性をよく表している。とにかく、門倉は初めての戦力外通告を受けた。


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