既にこの世にいなかったり、引退したりした元指導者が、亡霊のごとく現れ、中南海(政権中枢)を揺さぶるのが中国政治の常である。
李鵬元首相が1989年の天安門事件当時に執筆したとされる『李鵬六四日記』は6月下旬に香港で発売されると伝えられながら、「版権の問題」を理由に出版は中止となった。李鵬は民主化運動弾圧の旗振り役で、その内容に神経質となった共産党中央が、圧力を掛けたためとされる。
しかし今、胡錦濤指導部にその見えぬ影を落としているのが胡耀邦元党総書記だろう。北京の中国筋は「指導者には『胡耀邦のDNA』があるかどうか問われている」と明かす。
“タブー”に挑戦した胡錦濤国家主席
胡耀邦は、当時の最高実力者・鄧小平の下、80年代、総書記として改革・開放を主導したが、86年末に全国に広がった学生デモへの対応に「重大な誤り」があったとして鄧によって失脚に追い込まれた。89年4月、総書記を解かれ政治局員だった胡は中南海での会議中に倒れて死去した。胡耀邦追悼を契機にした学生運動が、民主化運動に発展したのがいわゆる天安門事件である。
胡の後任となった趙紫陽元総書記も同事件で李鵬らと対立、失脚した。その後任の江沢民前総書記は天安門事件の余波で抜てきされたため、党内で「胡耀邦」を公に語ることはタブー視され続けた。
このタブーに挑戦したのが胡錦濤だった。胡耀邦と同じ共産主義青年団(共青団)第一書記を務めた胡錦濤は胡耀邦を「師」と仰いでいた。
人民日報に掲載された回想文
胡錦濤が「胡耀邦問題」を党内で浮上させた第1弾は、2005年の生誕90周年に合わせて開催した記念座談会。第2弾は、胡耀邦が失脚の際に、その肩入れぶりが攻撃材料となった日本関係が対象となり、胡錦濤は07年、胡耀邦が1984年に招待した3000人の日本青年訪中団(胡錦濤が当時受け入れ責任者)に参加した当事者やその子供ら200人を中国に招いた。
07年の交流会で、その敏感さを知る胡錦濤は決して「胡耀邦」という名前を出さなかったが、08年の自らの日本訪問で「胡耀邦さん」と口にする。
84年の訪中団に参加した歌手・芹洋子と再会し、当時を振り返りこう語ったのだ。
「ちょうど皆さんが帰国するその日、芹さんの娘さんは『胡耀邦さん』からもらった赤いジャケットを着て空港のロビーで走っていたことを今でもよく覚えています」
しかしこの胡錦濤発言を報じる国営新華社通信は、「胡耀邦さん」の部分を「中国指導者」と置き換えて報道した。まだ胡耀邦をめぐる敏感さは残っていた。
そして第3弾が、今年4月15日付の共産党機関紙・人民日報2面に掲載された温家宝首相の「再回興義憶耀邦」(興義を再訪し耀邦をしのぶ)という見出しの署名入り回想文である。