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2010年7月26日

 もう一つ、飯島は学生時代のことを懐かしそうに振り返った。

 「師事した日比忠俊先生は、技術論はあまりおっしゃらず、『人のやっていることは真似するな』との薫陶を、耳にタコができるほど聞かされました。『それは銅鉄研究(銅で見つけたものを材料だけ変えて鉄でやるような、独創性のない研究)だ』と、よく叱られましたね」

 勘が、経験からくる感性の領域となれば、筋道だてて教えることは難しい。例えば筆者は、決して勘がいいほうではないが、この世界に入った時の師匠が「これだ!」と動物的な判断をするのを近くで見ていたことが、よき訓練であったと、今になれば思う。勘とは、日ごろ一緒にいる人から皮膚感覚を通してのみ、学べるものなのかもしれない。新しい発見を追究していた恩師から、飯島が感性として吸収したものも少なからずあったのだろう。

 「経験は時間に比例しているんだから、創造的な仕事は若者の専売特許じゃないですよ。オーバーに言うと、私は朝も夜もない感じでEMの世界と格闘してきました。ちょっとしかやっていない若造に、これができるかって思いながらやってきましたよ」

 体の中にあるストックが勘を生む苗床である。それは飯島とは違って、無為に重ねてきた経験にすぎないという人もあるだろう。それでも、理屈をてんこ盛りにしたところで発想が飛躍できないことは多いのだから、眼前の事柄に対して湧いてきた、自分の勘を大事にしてみてもよいのではないか。

 経験が質量ともに劣っていたり、長らく勘を働かせることに及び腰だったりしたことで、読みどおり行動したのに悪い結果を招くかもしれない。でも、失敗も含めて経験を積まなければ、口を開けて空を見ていても勘は養われない。何より、屍の上に金字塔は建つのだから、心配は無用である。(文中敬称略)

◆ 「WEDGE」2010年8月号



 

 

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