(1893~1971年)
先生は文展*などで活躍している日本画家松岡映丘〔えいきゅう〕で、卒業後の蓬春は、映丘率いる新興大和絵会の同人となる。大和絵とはその名前からして、古くからの日本の絵の伝統を引きつぐ会派なのだろう。でもその頭に「新興」の文字がついている。
この時代の蓬春は帝展で受賞したり、作品が皇室買上げとなったりして、その活躍のほどがうかがわれる。でも蓬春の中では「新興」の意味の方が次第に高まり、この場での空気に限界を感じて、新しく出来た六潮会〔りくちょうかい〕に参加する。これは日本画家3人、洋画家3人、それに批評家などの8名から成り、このことからもその「新興」の空気が感じられる。その10年間でやっと蓬春の感覚はオリジナルなものとなっていったようだ。
もともと洋画科から進んだ蓬春である。その感覚の中には多分にデザイン気質が内包されている。それがやっとこの10年間に発芽したということだ。
もう一度建物に戻ろう。この家での最初の画室は2階の畳の部屋だった。夏は暑く、肌着1枚で仕事をしていたらしい。5年後、一階の庭に面した場所に、吉田五十八に新画室を造ってもらった。もうこのときは互いにすべてを飲み込んだ上での工作だろう。新しい画室は畳ではなく椅子に机で、この方が蓬春の絵のスタイルにすんなりフィットしている。
蓬春も几帳面で、蒐集品の飾り棚や隠し棚など、自らもいろんな工夫を提案しているようだ。蓬春の好みは多方面に広がっていて、東洋絵画、中国の名墨や硯、拓本、陶磁器、人形などの蒐集、それに蔵書も凄かった。陶磁器は果物など盛って絵の題材としているが、その陶磁器だけ取り出せば、それは趣味の結晶でもあったのだ。写真も前からやっていて、祖師谷時代には家に暗室も造り、かなり凝っていた。ある時期、絵を描かずに写真ばかり撮って、夫人が心配するほどだった。でも役に立つもので、戦後は秘蔵のライカ一式を手放した金で、この記念館の元になる家を購入している。
吉田五十八の建物は、徹底して直線構成だ。桂離宮などに見られる日本美の無意識のモダニズムを、さらに意識して進化させている。柱や障子の桟の直線などはますます細くなる。細すぎて強度を心配したくなるほどだが、そこは裏側に鉄材を使って、あくまで表にあらわれるシャープさに盡〔つく〕しているところは、凄い。表から見たシャープさ以外にも、壁や引き戸などの目に見えていない合理的工夫には感心する。