肝胆相照らす仲だった日本画家と建築家ふたりの友情の創造物、
そして夫の画業を守り伝えようと20年間孤軍奮闘してきた夫人、
その結晶である美術館が葉山の風景にとけこんで建っています──。
葉山は御用邸のあるところだ。交通の便ではやや引っ込んでいるが、それだけに静けさが保たれている。逗子駅からのバスを降りて、住宅地に入る細い道を一歩進むと、もう静かだ。ゆっくりとした登り坂は、その角度が背景の大峰山に向かっている。
路地に入って角を曲ると、いきなり大きなガラス板が立っているので驚いた。艶消しの黒い鉄枠でしっかり囲まれ、ガラス面にはこの記念館の名が刻まれている。狭い路地にずいぶん大胆だ。でもガラスなので背景の庭や山々が素通しで、圧迫感はなく、むしろ気持いい。巨大なファインダーをのぞくみたいだ。目障りな建物は何も見えず、ここは美術の記念館だというそのお知らせだけが示されている。
中に入ると周囲の植込みの中に幅広い石段がつづく。角度はゆっくりなので1段ごとの幅も広く、石段の感じがしない。しかもそれが並びもばらばらとずらしてあって面白い。入口のガラス板とのつながりだろう。
ここはもともと山口蓬春〔ほうしゅん〕が最後の23年間を住んでいたところだ。住居と画室が残されていて、そこで暮しながら制作した画家の感覚を偲ぶことができる。ことさら美術館という感じのしないのは、そのためらしい。
建物は吉田五十八〔いそや〕の手になるものだ。吉田五十八の日本家屋は、いままでいくつか見る機会があった。西洋建築のように主張の強いものではないので、記憶に残りにくいものだが、そうだ、これが吉田五十八だと、じわじわ思い出される。
戦前に蓬春が住んでいた家は東京世田谷の祖師谷にあり、五十八が設計した画家の家では最高傑作といわれているそうだ。戦時中はやむなくそれを手放し、山形県赤湯温泉に疎開していた。戦後また東京に戻りそれを買い戻そうとしたが、かなわず、知人の葉山にある別荘2階一間に仮住いしていた。それが葉山に来るきっかけとなる。その後この場所に家を見つけ、あらかじめ五十八に見てもらい、ここなら手を入れればいいものになるといわれ、きっちりと増改築をした。
このことでもわかるが、二人の間には強い信頼感があり、感覚を共にするものがあったようだ。歳は蓬春の方が一つ上だが、同じ年に東京美術学校(現東京藝術大学)に入学している。蓬春ははじめは洋画科、五十八は図案科で、それぞれ別の分野に進んでいくわけだが、そのころから互いに感覚を認め合うものがあったのだろう。
美校時代の蓬春は、裕福ではなかった。父の死後、蓬春は山口家を継いだ兄の支援を受けていたが、その事業の失敗により、海外留学ができなかった。それが日本画科に転じた理由の一つともいわれていて、そこのところは時代が感じられて面白い。若者は冒険をしたいし、その場所として当時洋画の世界がパリを中心にあったのだろう。でも生活の保障はない。洋画はまだふつうに売れるものではなかったのだ。日本画なら何とかなる、という世の中だった。先生の勧めもあって、悩んだ末に入学4年で日本画科へ転科、結局は首席で卒業している。