憲兵はあとをつけてきた
その夜も同じだった。場所は高級ナイトクラブ。真夜中の宴もたけなわのときに、カラビネーロ数人が乱入し、店内は白けた。ピアニストは鍵盤の上の手を止めた。客たちは低く呟く。「なんてこった」、「ああ馬鹿らし」「祭りは終わりさ」「帰ろう、帰るきゃないさ」。女たちは立ち上がり、控室に行き、ハンドバックの中の身分証明書をカラビネ―ロに見せねばならなかった。
筆者はその夜知り合った店で働く女性を家までタクシーで送った。大学生のアルバイトで授業料を支払うために働いていると自分では言っていた。意外だった。ナイトクラブで働くのだから、裕福な家に住んでいるとは思っていなかった。ところが車が向かったのは、サンチャゴ東側の高級住宅街だった。彼女の家に着いてまた驚いた。塀に囲まれた邸宅だった。彼女はハンドバックの中をさがしはじめた。
「鍵を忘れたわ」
彼女はタクシーを出た。家に入るのを確認するまで、筆者は車をそこに留まらせた。彼女はチャイムを押したが誰も出て来ない。午前3時に近い。しかたなく、塀をよじ登った。そのときだった。サーチライトが彼女の身体を照らし出した。金髪が風に揺れた。
「動くな!」
大声がガラス越しに聞こえた。だだだだ、だだだだ、複数の足音が響いた。タクシーの運転手がつぶやいた。
「ちぇ、つけていやがった」
彼女の背中に3人のカラビネーロがマシンガンの銃口をつきつけた。彼女は塀から降り、両手をあげた。まるで演劇の舞台のようにその様子をサーチライトが照らし出した。背後を見ると、パトカーとジープがとまっていて、用意のよいことにジープには照明器具をしつらえ、彼らは拡声器さえ携行していたのだ。眩い光の中に二人のカラビネーロが黒く浮き上がっていた。
タクシーの窓が叩かれた。カーキ色の制服とつばの出た帽子、白い手袋、能面のような無表情の顔。彼らは周辺国の警察のように腐敗していない。賄賂は通じない。それだけに怖い。こんなときは落ちついているに限る。
ドアをあけた。マシンガンの銃口が顔の前にあった。
「身分証明書を」
ジャンバーの内側を開いて見せ、拳銃を持っていないことを確認させてから、シャツのポケットに手を入れ、証明証を渡した。隣国のボリビアの滞在許可証だった。
「出ろ!」
午前3時になろうとするサンチャゴの街は、剛然として、白々とたたずんでいた。目の前には平屋が続き、背後には背の低いビル群があった。ビルとビルの間をアンデスおろしが悲鳴を上げて吹き荒れていた。
目の前には3人のカラビネーロがいた。ひとりが懐中電灯で証明書を照らし、もう一人がマシンガンをつきつけている。筆者はわずかな街灯の光で、彼らの肩の星の数を確認した。ペルー国境で、ブエノスアイレスのタンゴハウスの前で、兵士や警察の銃口に囲まれたことがある。銃口は南米大陸の象徴でもある。
懐中電灯を持つ位の低い方の男が、「ボリビア人ですよ」と言った。上官は、ひとしきり証明書を見つめて聞いた。
「ボリビア人か」
「いや、日本人」
二人は、互いの顔を伺った。かすかな狼狽の気配があった。カ-ドには、一番下の部分
に小さく日本国籍とあった。彼はなお証明書を見ながら、高飛車な口調で言った。
「後、十日で切れるな」
「更新しますよ」
全く根拠のない文句だった。ボリビアの滞在許可日数をチリにおける滞在許可と誤解したらしい。彼は、この時パスポ-トに押されたチリの入国スタンプの呈示を求めて、私を困らせることができたはずだ。パスポートはホテルに置いてあった。
「職業は?」
「カメラマン、彼女をモデルに写真を撮るところだったんですがね」
口から出まかせを言った。皮肉な笑いが浮かんだ。
「気にいったのか」
「ええ」
「なぜ、連れて行くんですか」
「明日の夜来るんだな。書類が不備なだけだよ」
すでに彼女は筆者の前を連行されてパトカーの中へと入れられてしまっていた。そのとき、ちらりとこちらを見たように感じた。
上官は彼女がすぐにも釈放されることを仄めかしたが、拷問をされるか、すぐ戻されるかは恣意的なものだ。
「気を付けるんだな。ここはあんたの国とはまったく違うんだから」
と諭すように言い、ほらっと証明書を筆者の胸元に差し出した。右手で受け取ると、彼は部下を促し、パトカーへ向かって歩き出した。
―おまえらを襲う共謀なんてやっているわけないだろう!
そう言いたかったが、勇気のない筆者は心の中で叫んだだけだった。
彼女は後部座席で二人のカラビネーロに挟まれていた。ジープはサーチライトを消した。街灯の光がほのかにあたりを照らした。ジープの中の黒い銃口はこちらを睨んだままだ。パトカーとジープが発進し、瞬く間に視界から消え去った。
彼女がなぜ連れ去られたかは、わからない。テロ組織の一味と推測されたのか、ただのいやがらせなのか、あるいは彼女が女性として魅力的だったからか。独裁政権の軍や警察は恣意的なもので、理不尽なのである。チェコの作家フランツ・カフカが『審判』(執筆は1914年-1915年の第一次世界大戦中。チェコは敗北するオーストリア・ハンガリー帝国の一部だった)で描いたように、何の罪状なのかも不明で連行され、犬ころのように殺されるーそれが独裁下における警察国家である。
その日、南のパタゴニアに向けてどうしても旅立たねばならなかった。また筆者がカラビネーロの事務所に行っても、何もできなかっただろう。いや、それは卑怯を糊塗する偽善的な言い逃れだった。自らの危険を顧みずに救おうとする気概も勇気もない。知り合ったばかりの女性なのだ。友人や恋人だったら違っていたかもしれないが。
その後、彼女がどうなったのかは不明だ。