法律用語の不快
後見人に選任されて1周年の10年10月が訪れ、神戸家裁より同月までの年間決算書の提出を求められた。書面のタイトルは「平成22年(家)第51492号 成年後見監督処分事件」。
ぎょっとした。「処分」、「事件」って人間相手に使うと普通は処罰に近い意味ではないか。
尋ねると、書記官は「皆さんよく驚かれ『何か悪いことをしたのか?』と聞かれるのですが、そんな意味ではありません」。大勢の人が不快に思う用語をなぜ使い続けるのか。ただでさえ後見人の神経はすり減っているのだ。こんな小さな点からも改革が必要だ。
「監督処分」とは、後見人から収支決算と次年の予算の提出を求め、家裁が後見活動をチェックすることを指す。だったら「成年後見監督処理案件」とか「~事案」とでも言い換えれば済む話ではないか。
決算予算の提出時に、「報酬」付与の申し立ても可能だ。いずれも11月末が期限という。
成年後見人への「報酬」という言葉にも抵抗感があるが、これは後払いで、1年ごとが目安。被後見人の財産から支給される。公開された基準支給額はない。家裁が後見事務の難易などを総合的に検討し、支給の是非、金額を決める。その内訳も一切知らされることもなく、不服申し立てもできない。まったくもって不親切な制度である。(参考:東京家庭裁判所立川支部が2013年に公表した「成年後見人等の報酬額のめやす」によると、基本報酬は月額2万円、身上監護等に特別困難な事情があった場合や特別な行為をした場合には付加報酬が加算されることになっている。)
結局、11年2月7日付で「39万円の報酬を与える」との審判が下った。私が報酬申し立てを送付したのが10年11月15日であり、2カ月以上を経た。この間、決算予算が認められたのかどうかジリジリした思いで待たされた。
由利子には、できるだけ長生きしてほしい、と本心から思っていた。その理由は、まず由利子がスカートをはいた時のような喜びを、たとえ線香花火のような瞬時の楽しみであっても、与え続けたいと思うこと。次に、亡くなった際に生じるであろう煩瑣な手続きに、恐れを抱いていること。さらに、後見人の最後の仕事が相続権を持つ血族たちへの遺産引渡しだということだ。
彼らにも、それぞれ事情があることだろうが、義理とはいえ私の伯母の由利子の最晩年に愛情を示してくれなかった人々には会うのも嫌だ。姻族の私が、成年後見人として家裁の監視下に置かれているのに、血族たちは何の負担も無い。弁護士から、遺産引渡しの務めを家裁に託して、家裁が弁護士を雇い処理する方法があると聞かされており、その方法で願うつもりだった。