大阪には実力主義者がよく似合う。優雅さは京都、モダニズムなら東京だが、大阪は芸で来い、力で来いと構えるとサマになる。そんな大阪らしさをよく表現した映画に「どついたるねん」があった。監督の阪本順治は堺市の出身である。デビュー作のこの作品では西成区出身の赤井英和に浪速のロッキーと呼ばれる赤井自身のようなボクサーを演じさせた。あけすけに自分自身をさらけ出して自分を笑いものにしながらがんばる大阪的楽天主義、大阪的実力主義の精華のような秀作である。
この大阪的な実力主義を過激なまでにエスカレートさせたのが八尾市出身の三池崇史監督の映画かもしれない。彼はいま日本でいちばん忙しい映画監督と見られている。今村昌平監督が作った横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)を出てフリーの助監督からビデオ映画の監督になり、映画監督になった。まだ昔の撮影所育ちの助監督が多くいて、そっちがエリートとみられ、ビデオ映画が軽蔑されていた時期に、こっちの先頭に立って過激な暴力表現であっと言わせた。
もちろんただ過激なだけではない。その暴力描写から一種異様な躍動感が生れ、詩が生じたからである。しかしまだまだ、勝負はこれからである。いま彼は大作の注文が相次ぎ、「クローズZEROⅡ」やエンターテインメント超大作として注目のマトの「ヤッターマン」がでる。常識を平気でとびこえる画面の奔放さが観客をアッと言わせてきた彼だが、とくに後者は、これまで男くさくて血なまぐさい映画で話題を集めてきた三池監督としては珍しく、女の子たちなどを恰好よく撮り、お洒落でスマートなファンタジーに仕立てている。
大森一樹は医大の学生時代に16ミリ映画を作って注目され、次いで城戸賞入賞の自作シナリオが松竹で映画化されることになったとき、監督もさせてほしいと要求して監督デビューした。まだ医学生だった時期で、1978年のことである。それでひきつづきA・T・Gと提携で「ヒポクラテスたち」というインターンの若者たちを描いた秀作を作った。監督経験などなくても実力さえあれば映画は作れるということを実証したものとして当時映画界にはちょっとした衝撃を与えたものである。
田中徳三(1920~2007年)は大阪は船場の帯問屋の息子。それで代表作は河内のやくざを描いた「悪名」シリーズの第一作と第二作。腰の低い商人の世界から斬った張ったの威勢のいい世界では少々飛躍しているが、これが性に合って当時、京都市民映画祭の監督賞を得ている。昔の鯨とりの漁師たちを描いた「鯨神」も私の好きな作品のひとつだ。