2024年12月27日(金)

万葉から吹く風

2011年1月14日

 万葉集は、屈託のない表現をストレートに楽しめるところが気に入っている。もちろん裏に意味を隠している歌もあるが、時代の自由さを象徴するかのように、堅苦しい立場の皇族もウイットに富んだ歌を残している。

 たとえば、天武天皇と藤原夫人〔ふじわらのぶにん〕は、こんな相聞歌を詠んだ。

わが里に大雪降れり
大原の古〔ふ〕りにし里に落〔ふ〕らまくは後〔のち〕
                                       
(天武天皇 巻2-103)

わが飛鳥の里には、大雪が降っているけれど、おまえのいる大原の古びた里に降るのは、ずっと後だろうね。

わが岡の龗〔おかみ〕に言いて落〔ふ〕らしめし
雪の摧〔くだ〕けし其処〔そこ〕に散りけむ
                                       
(藤原夫人 巻2-104)

いいえ、私がこの里の龍神に祈って降らせてもらった雪のかけらが、そちらにも散ったのでしょう。

photo:井上博道

 この二人が居る場所は、一キロも離れていない。普通なら、「すごい雪だね」「そうだね」で終わるところだ。けれど天武天皇は、「おまえのところには降っていないだろう」と軽口を送り、藤原夫人も「違うわよ。こっちの雪がそっちに行ったのよ」と応える。この子どもじみた遊び心がかわいらしい。特別な興味をもったことのなかった天武天皇が、急に身近に感じられる。歴史の授業で習うのは政治ばかりで、史実は窺えても人物が見えてこない。しかし万葉集からは、人となりが浮かび上ってくる。そこが魅力的だ。

 天武天皇と藤原夫人には、お互いのユーモア・センスへの信頼がある。意外に思われることも多いが、僕は絶えず冗談を飛ばして周囲の人を笑わせ、自分も笑っていたい性格。ゆえに相手が面白がるポイントを想像しながらメールを送る自分自身が、天武天皇に重なってしまう。そして、二人の信頼関係をとてもすてきだと思う。何千年経っても日本人のそういうところは変わらない、DNAだろうと嬉しくなる。

 古典を心で感じて、想像する。これは、耳ではなく細胞で聞くといわれる雅楽の手法だ。鎌倉時代の楽書『管弦音義』に、一つ一つの音のもつ意味が解説されているが、これは連綿と続いてきた人の営みを検証した統計学の一種だろう。僕は雅楽師として、昔の人が音に込めた想いを表現してきた。だから昔の人が書いた言葉も、読み解くのではなく、心で感じて表現したい。

 いつか万葉集に雅楽的なメロディーをつけられたらと夢想している。
 

*藤原夫人:藤原鎌足の娘、五百重娘(いおえのいらつめ)のこと。夫人は、律令制の後宮における皇后・妃に告ぐ地位。


 


 

 

 

◆ 「ひととき」2011年1月号より

 

 

 

  

 
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