青年の頃に何度か、リュックの中に万葉集の文庫本と、戦前に刊行された『万葉集英訳選』を入れて、ぼくは東京から京都まで列車に乗り、京都から歩き出して、宇治に一泊して、奈良へたどりついた。そして奈良に泊まったその翌朝に、山の辺の道を通って、明日香村まで歩いた。
日本語の時代をさかのぼるように、源氏物語から万葉集まで「歩いた」という感覚になった。風景は、すべて書かれた風景だったのである。そこへの旅では、自分自身が何かを発見するよりも、むしろ1300年前にその風景の中で生きてその風景を詠んだ歌人たちの、自然と言葉の緊密な関係を再発見することが多かった。アメリカの旅にはない、書きことばの歴史が長い国独自の感動があった。
山と、河と、道と、地名。「万葉」の面影が実に濃厚な風景を思い出しながら、その風景からかぎりなく遠く離れたアメリカ大陸の東海岸にある大学で、ぼくは7世紀と8世紀の日本で詠まれた長歌と短歌を愛読するようになって、その一部を英語に翻訳もした。
最初に万葉の世界を知ったのは、教室の中ではなくひとり旅だった。その体験の意味は大きかった。日本語の作家となったあとも、ぼくの作品の多くは現代の語り手の「旅」を描いているのである。
万葉集を英訳していた頃、「草枕 旅にしあれば」という日本語から、人間の一つの根源的な状況が伝わった。京〔みやこ〕を離れたひとりの声が鮮明に聞こえた。そしてその状況を表わしている「草枕」も、まさに普遍的で、枕詞としてはめずらしく翻訳しやすい。
「On a journey, with grass for pillow」。「草枕」は、万葉集巻1・第5番の軍王〔こにきしのおほきみ〕の長歌にはすでに現われている。「旅」の深さと淋しさを表わした、初期万葉独特の素朴でダイレクトに読者の心を打つ表現なのである。
大夫〔ますらを〕と 思へるわれも
草枕 旅にしあれば 思ひ遣〔や〕る たづきを知らに
(巻1-5 部分)
「万葉」の領域へのはじめての旅を思い出しながら万葉集に出てくるはじめての「草枕」を、ぼくは何度も読み返した。日本でも読み返し、アメリカでも読み返した。1300年前に書かれたとは思えないほど、ひとりの旅人の声が力強く、現在形的に響いた。
文学は、旅から生まれる。移動から生まれる。今もそうであり、日本文学がはじめて書かれた時代もそうだったのである。
■「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
週に一度、「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします。