なぜ、中国は『智子之心』を許せなかったのか
台湾の識者のなかでは、中国において旧日本軍に付随する女性のイメージはあくまでも従来的な「従軍慰安婦」に代表される強制下で虐げられた女性像であるべきで、そこから外れる『智子之心』のようなドラマは特に都合が悪いのだろうという指摘もある。
確かに、太平洋戦争という男性主導で行われた歴史的動乱のなか、植民地下において被統治者である台湾人、しかも女性が自らの人生を切り開き、自己実現を成し遂げたという点で『智子之心』は非常に現代的な視点で描かれたものともいえる。
最近の台湾における日本時代の捉え方とは、単純に「親日」だとはいいがたい。むしろ、強大な中国に対抗する「台湾アイデンティティー」が確立されるなか、日本時代という経験を、中国と差別化するための履歴のひとつとして肯定する方向に進んでおり、日本時代の建築物の再生などはその流れの表象でもある。
そうした意味で、これまでの「中華アイデンティティー」が共有してきた抗日史観を根本からぐらつかせる『智子之心』は、中国にとって特に神経を逆なでする作品なのかもしれない。
悪しき前例となった中国への「忖度」
しかし、一人の女性の人生の物語を「好ましくない」という理由で打ち切りにしたとすれば、92歳の林智恵さんご本人にとっては、自分の人生を否定されたように感じたのではないかと想像して心が痛む。
「中国と、モデルになった女性の人生とどちらが大事なのでしょうか」と言葉に憤りをにじませた馬場さんは、さらにこう続けた。「悪しき前例となってしまいました。芸能界やメディアの外堀を埋められるような動きが、今後いっそう強まるのではないかと懸念しています」。
その言葉通り、今後こうした日本時代を舞台にしたドラマや映画がつくられる際に、制作者やキャストが中国側に「忖度」することで台湾の自由なエンタメ表現が委縮していくことは充分考えられる。台湾の将来はあくまでも台湾人が決める事に違いないが、台湾で生きている日本人の一人として、台湾の自由な表現のために何が出来るかを、深く考えさせられる。
ところで台湾の映像作品といえば、ニウ・チェンザーが監督した映画『軍中楽園』の公開が間もなく東京・横浜・大阪の映画館で始まる。金門島に実在した軍の「娼館」を舞台にした問題作で、中華アイデンティティーの揺らぎを扱った歴史的・政治的に意義の深い作品であることは間違いないが、もっと単純に「狂おしくせつないメロドラマ」としても楽しめるので、多くの日本の方に足を運んでいただきたいと思う。
▼『軍中楽園』日本公開情報(2018年5月26日~)
【東京】ユーロスペース
http://www.eurospace.co.jp/
【横浜】横浜シネマ・ジャック&ベティ
http://www.jackandbetty.net/
【大阪】シネマート心斎橋
http://www.cinemart.co.jp/theater/shinsaibashi/
京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。日本の各媒体に台湾事情を寄稿している。著書に『在台灣尋找Y字路/台湾、Y字路さがし』(2017年、玉山社)、『山口,西京都的古城之美』(2018年、幸福文化)がある。 個人ブログ:『台北歳時記~taipei story』
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