ダイナミックな人間形成である。地位が地位だけに、下手をするとそのままずるずる放蕩の生涯となりかねないところを、ぐっと短期間で卒業できた。郷里にはキリスト教信仰から社会奉仕活動をする人が多く、その風土にも助けられた。それもただの博愛だけでなく、とくに進取の気に富む人を応援するという風潮があり、それはこの地が天領(3)であることにも起因するようで、それぞれの人が誇りをもって活動している。
とにかくこうして孫三郎と虎次郎のタッグによるコレクションは、だんだん形を成していった。虎次郎は自分の目で絵を買い集めるだけでなく、現地の画家アマン・ジャンにも蒐集を頼んでいたが、内容的にあまり成果はなかったようだ。買う目で絵を見るのは難しいことだと思う。孫三郎の方は自分の好みよりは、その絵が本当に人々のためになるのか、それだけを気にかけていたという。
買い求めた絵はその時代の輝ける印象派が中心だけど、それにつづくボナールなど装飾的な絵も多く、それは虎次郎の好みなのだろう。セガンティーニやシャヴァンヌなどにも、思い入れがあったようだ。ルノワールの「泉による女」は、注文制作だという。虎次郎が直接訪ねていっている。マティスの「マティス嬢の肖像」は、虎次郎が訪問したとき家に飾ってあったものだという。娘を描いた絵なので、手放したくなかったのかもしれないと、学芸員は話していた。
グレコの「受胎告知」は、虎次郎が唯一、購入していいか、孫三郎に問い合わせた絵だそうだ。値段なのか、時代のことなのかはわからないが、たしかに別格の空気がある。
美術館をどこに建てるか、二人とも悩んでいたが、その前に、虎次郎は47歳の若さで亡くなってしまった。コレクションが充実して、美術館という頂上が間近であっただけに、ショックは大きかっただろう。結局建てたのは、大原家の真ん前、倉敷川の畔である。建物正面はギリシャ神殿ふうに太い円柱が並び、そこを石段で登る。その本館には、コレクション当初の印象派近辺の作品が並ぶ。一階二階も同様だ。二階の入口上部の壁面いっぱいに、天国と地獄的な世界を描いた古風な大作が掛かる。ぴったり壁いっぱいなので、その絵に合わせて建築の図面を引いたのかもしれない。
(3) 江戸幕府の直轄地。大名の強い圧力がなかったため倉敷は町人の町として栄えたという。